アニマル浜口の"吠える大予言"! 「気合い」と「笑い」で盛り上がらない北京を救え!!
関連タグ : 200808 | アニマル浜口 | レスリング | 浜口京子
──この男、すべてが"魂の叫び"である。愛娘・浜口京子選手にむかって叫ぶように、我々取材班にむかっても「気合いダァ!!」と大声で激励してくれる。断言する。イマイチ盛り上がりに欠ける北京を救うのは、アニマルしかいない!

──まず、京子選手の五輪出場おめでとうございます。開幕まで1カ月を切りましたね。
アニマル浜口(以下、ア) まだまだ盛り上がりが足りないですよ! アテネ五輪のときは、もっと盛り上がった気がしたけどねぇ。「アテネに向けて行くぞ 0!」っていうエネルギーが溢れていた。でも、今回は中国をめぐって政治的な問題があったりして、世間的にもイマイチ盛り上がっていけない気分だよね。
──06年、07年の世界選手権は、京子選手にとってつらい試合でしたね。
ア 06年の世界選手権で、京子はスタンカ・ズラテバ(ブルガリア)に反則の頭突きをされて負けてしまった。ズラテバは、真っ向勝負では京子に勝てないと思って、頭突きという卑怯な手を使ったわけです。京子は、それで鼻骨陥没ですよ!! 本来なら、審判が試合を止めて、ビデオをチェックすべきなんですけど、見て見ぬフリをして、結局うやむやに終わってしまいましたし。そりゃ、1カ月間くらい腹が立って煮えくり返りました。毎日、一升酒。あの悔しさを紛らわすためには、大酒飲むしかなかった。京子も文句を言いたいけど、何も言えないでしょ。だから、俺が家の中で本音をぶちまけました。誰かが京子の代わりとなって叫ばないとおさまらない。それが父親としての使命だと感じたんです。
長距離・松野明美──「五輪は"恋愛"でした!」選ばれし者の恍惚、ここにあり!
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■松野明美(長距離)
【五輪出場記録】88年ソウル大会/予選9位(女子陸上1万m)

いわく、「カール・ルイス選手を見に、選手村
のディスコに行ったけど、どの人かわからなかっ
た」なんてエピソードも。
147㎝の小柄な体格で懸命に走る姿や、その独特のキャラクターで人気を博している松野明美さん。88年、日本女子として24年ぶりの1万mでソウル五輪に出場、結果は9位なるも、当時の日本記録を更新した。五輪の魅力を方々で熱く語る彼女。陸上を始めた当初から五輪への憧れは強く、 夢の舞台 だったというが、実際に立ったその舞台は、想像をはるかに超えていたそうだ。
「想像していた以上でしたね。高校のときからさまざまな大会に出ていたんですが、自分の中では、大会というものは、倒れるまで頑張って走る、それで自分が満足するためのものだった。でも五輪は、そんなものではなく、まったく予想と違いました。もうね、なんていうかね、特別なものだったんです、別格。あの独特の緊張感と高揚感は、他の大会では味わったことがない。トラックでは選手たちが地面を見つめて淡々とウォーミングアップをしているんですが、空気がピーンと張りつめててね、硬いんですよ。硬くて重くて、空気が吸えない。選手一人ひとりから立ち上る思いの強さや熱気が、あの 特別 としか言えない雰囲気を作り上げていたんでしょうね。今でも思い出すと鳥肌が立ちます」
いざ競技が始まると、その思いはますます強くなる。1万mを走る間に、えも言われぬ恍惚とした幸福感が、松野さんを包んだそうだ。
体操・信田美穂──「税金の無駄遣い!」と言われて知る"自分のため"だけじゃない五輪
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■信田美帆(体操)
【五輪出場記録】88年ソウル大会/34位(個人総合)、12位(団体)
「五輪って、数ある世界大会のひとつだと思っていたので......行く前は、『よし、いつもの演技をするだけ』って気持ちでしたね」

選手村でも、女子体操の代表はほかの競
技の人と話すことをコーチから禁じられていた
ため、誰かと話した記憶がないそうだ。
サラッとこう言うのは、ソウル五輪出場の元体操選手で、つんくファミリー・女性ユニット「太陽とシスコムーン」の元メンバー・信田美帆さん。我々一般人から見れば、アスリートにとって 夢の舞台 だろうと思う五輪も、当時16歳だった彼女にとっては、 通過点 にすぎなかったという。
「そもそも体操を始めたきっかけ自体、体を鍛えるためで、五輪が目標とかではなかったんですよ」
小学生後半で才能が開花し、中学生で全日本チャンピオン、高1で五輪出場という道を歩んだが、五輪に対し、特別なプレッシャーがなかったのもそのためだという。だが五輪開催が近づくにつれ、周りの変化は著しくなった。
「コーチに生活面を徹底管理されましたね。10代前半の女子にはメンタル面の管理をうまくできない子が多いので」
食事制限から始まり、現地では外出や他の競技の選手との交流も禁止。非常にストイックな生活を強いられた。
水泳・岩崎恭子──金メダリストだから見えた世間とマスコミの裏と表
関連タグ : 200808 | 夢の舞台マル秘秘話 | 岩崎恭子 | 水泳
──「『税金泥棒!』と罵られたこともありました......」あの"恭子ちゃん"から元「太陽とシスコムーン」メンバーまで、4人のオンナたちが今だから語る、「私が見た五輪の意外な現実」!
■岩崎恭子(競泳)
【五輪出場記録】92年バルセロナ大会/金メダル(女子200m平泳ぎ) 96年アトランタ大会/10位(女子200m平泳ぎ)

(写真/田中まこと)
「当時は14歳でしたし、五輪がどのようなものかわからなかったので、初めて出場したバルセロナ五輪へは、普段の大会と同じような気持ちで臨みました」
92年の夏、日本中を熱狂の渦に巻き込んだあの少女も、今ではすっかり大人の女性。もうじき30歳を迎える岩崎恭子さんは、落ち着いた口調でバルセロナ五輪の思い出を振り返った。
「実際に行ってみると、お祭りのような雰囲気がありましたね。いろんな国や競技の選手がいて。選手村で宗教的な儀式をしている選手がいたり、異文化に触れる機会も多々ありました」
バレー・大林素子──「帰りの飛行機では集団自殺を考えた」女子バレー全盛期に五輪に出る重さ
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■大林素子(女子バレー)
【五輪出場記録】88年ソウル大会/4位 92年バルセロナ大会/5位 96年アトランタ大会/予選9位
「五輪は命を懸けて戦う場所だった」と、女子バレーの元日本代表・大林素子さんは言う。「五輪=負けられない戦い」という彼女が抱いていたイメージは、実際にその場に立ってみても、まったくズレていなかった。

「24時間バレーのことを考えていた。バレーの夢を見れて
一人前、という時代です」。今は時代が変わっている、と
大林さんは言う。
彼女が五輪初参加となった20年前は、女子バレーがメダルを取らずに帰国することが許されない時代。ソウルに旅立つ前、先輩からひと言、「負けたら帰ってこれないよ」と言われたという。
「メダルを取ってくるのは当然で、私たちはその使命を果たすだけ。ずっとそう教育されてきました」
ロサンゼルス五輪で銅メダルを取り、帰国後に「非国民」となじられた先輩も、ソウル五輪には参加していた。そんな話を間近で耳にしていた彼女にとって五輪は、 お祭り どころか 命懸け の場所だと思っていたという。実際にコートに立った瞬間は、震えが止まらなかった。
「周りの先輩も緊張していて、やっぱりほかの大会とは違うなと。とにかく国のために負けられないという、 特攻隊 のような気持ちでした」
金メダリスト・森末慎二が、"五輪の商業化批判"に反論!「お金がなきゃ五輪は開催できない!!」
関連タグ : 200808 | オリンピック | 体操 | 名選手がオリンピックビジネスに提言 | 森末慎二
──ロサンゼルス五輪の体操競技日本代表として、金・銀・銅の3種のメダルに輝いた森末慎二。タレント転身をきっかけに一度は体操界を去ったが、北京五輪を前に、昨年、理事として22年ぶりに古巣の日本体操協会に復帰した。そんな彼に、元選手として、そして競技団体幹部としての立場から、ビジネス化する五輪について熱く語ってもらった。

(写真/渡辺幸和)
──スポンサーの用具以外、身に着けられないという選手の状況に対して、「自由に選べないなんて窮屈そう」という意見もあるようですが?
森末慎二(以下、森) それは、しょうがないですよ。選手は制約の対価として、スポンサーからお金をもらっているわけだから。それを選手が窮屈だと感じるなら、契約をやめればいいだけ。
──森末さんがロサンゼルス五輪で活躍された84年当時も、そのようなスポンサー縛りはあったんですか?
森 僕は紀陽銀行の体操部に所属していたんだけど、当時は「アマチュア規定」によって五輪出場者がスポーツで金銭的な報酬を受けることが禁止されていたので、スポンサー契約自体がまずなかったんですよ。今でこそ五輪は"プロ選手の戦いの場"と化しているけど、92年のバルセロナ五輪より以前は「五輪はアマチュア選手のもの」という風潮があったから。当時は、JOCに加盟する競技団体のアマチュア選手の肖像権はJOCが持っていたので、たとえJOCの協賛企業のCMに出演したとしても、選手には一銭も入ってきませんでした。
独占直撃! サマランチIOC名誉会長「オリンピックをダメにした、すべての元凶は、アナタじゃないですかっ!?」
関連タグ : IOC | インタビュー | サマランチ名誉会長
北京五輪開催直前、IOC名誉会長であるサマランチにインタビューを敢行! 指定された場所は、スペイン・バルセロナの大手貯蓄銀行「ラ・カイシャ」の会長室。彼は同銀行の名誉会長でもあるというのだ。五輪を商業イベント化したことに対する自身への批判をどう捉え、北京五輪をどう見ているのだろうか?
(写真/ペラ・プンティ)
ホアン・アントニオ・サマランチの最大の功績は、五輪にテレビ放映権、企業広告、スポンサーなどの収益メカニズムを積極的に導入し、今日のIOC(国際オリンピック委員会)の盤石の財政基盤を築いたことであると言われる。しかし、同時に五輪にビジネス至上主義を持ち込み、商業イベント化したことに対する批判も根強く、その功罪が問われている。北京五輪開催をめぐっては、08年3月に表面化した中国政府によるチベット弾圧が国際的な問題となり、世界各地で中国政府への抗議活動が行なわれ、一部の国ではボイコットすべきとの強硬意見も出るなど、開催さえ危ぶまれている 。
現在はどのような活動を?
サマランチ(以下、サ) 健康が許す限り、"活動的な"隠居生活をしているよ。高齢者が積極的に社会に関わることはとても大事なことだ。今でも毎日この執務室からさまざまな案件に接し、私の意見を求める人たちに対応している。もちろん、あらゆるスポーツの活動にも関わりを保っており、IOCの事務局があるローザンヌ(スイス)へも定期的に訪れている。
──IOCの名誉会長を務められていますが、同職の具体的な役割とは?
サ 私は、要請があればいつでもIOCの役に立てるよう支援するつもりだが、現在の主な仕事は、五輪博物館や資料館の総括管理だ。
媚中報道の元凶がココにある!? プレスパス欲するマスコミあきれた談合&自主規制
関連タグ : 200808 | プレスパス | メディア | 北京五輪裏ガイド

五輪は、報道陣にとっても、プレスパスをめぐる"競争"
である。(絵/カズモトトモミ)
北京五輪を取材するために必要なプレスパスは、IOC(国際オリンピック委員会)が発行したものと、中国政府が発行したものの2種類がある。IOCのパスには、活字メディア用と放送権者用(放送メディア用)があり、IOCが各国に割り当てた後、JOC(日本オリンピック委員会)が新聞社、雑誌社に配分する。放送権者用パスは支払った放映権料に応じて、IOCが直接放送局にプレスパスを発行する。日本ではNHKと民放でつくるジャパンコンソーシアムという組織が共同で放映権を獲得し、各局共同で取材チームを組む。その上で、中継競技を割り振り、撮影素材を局ごとに加工して日本で放映する流れとなっている。
今回の北京五輪取材のため、日本に対して発行されたIOCパスは新聞・雑誌などの活字メディア用と放送権者用、それぞれ約350枚程度だと予測されているが、その配分方法はどうなっているのだろうか?
野球が消えて、BMXが仲間入り......「競技・種目の入れ替わり」と「視聴率重視」という偏向
関連タグ : BMX | サーブル団体 | セーリング男女RS-X | フェンシグ女子フルーレ団体 | 北京五輪裏ガイド | 女子レーザーラジアル級 | 競技種目 | 視聴率 | 野球

野球が外されると、アメリカのメダル獲得数も減ると
思われるが......。絵/カズモトトモミ
北京五輪で実施される競技数は28、種目数は302種目。競技数は前2大会から変化していないが、種目数に関しては過去最多の大会となる。
振り返ってみれば、五輪は開催回数を追うごとに競技数と種目数が増加傾向にあり、特に商業五輪の始まりといわれる84年ロサンゼルスでは、その前の80年モスクワの203種目から、221種目へ大幅に増加。以後は88年ソウルで23競技237種目、92年バルセロナで25競技257種目、96年アトランタで26競技271種目、そしてシドニーでは28競技300種目の大台に。
「種目数の増加は、五輪の肥大化と比例します。特に税金を1セントも使わずに運営されたロス五輪は、テレビ放送権料、マーケティング・ライセシング、入場料収入の売り上げを3本柱に商業五輪を成功させた。中でも放送権はウェイトが大きく、米テレビ局・ABCなどは2億2500万ドルもの放送権料を支払った。アトランタでもその流れは続き、テレビ局の意向によって、アメリカで視聴率が稼げるビーチバレーなどが採用されたのです」(スポーツジャーナリスト・谷口源太郎氏)
そもそも競技数や種目の決定はIOCに委ねられており、さらにその中の競技検討委員会が、大会ごとに実施競技・種目の審議を行って決定している。長年、ヨーロッパの貴族精神に則った競技・種目を優先してきたIOCだが、商業化が進むにつれ、視聴率の稼げるものが優先されるようになってきた。
異端児は、北京でヒーローとなり得るか!? ヒール石井慧の活躍に頭を悩ます日本柔道界
関連タグ : 200808 | 北京裏ガイド | 柔道 | 石井慧
男子100キロ超級代表の石井慧は、柔道界の異端児である。
これまで日本の柔道は、常に相手と組み合い、「一本」を取ることを美徳としてきた。僅差のポイントで決まる勝負を良しとせず、先日引退した井上康生のように、そのままタイムアップを待てば勝てたかもしれない試合終盤に大技を狙い、相手に返されて敗れたとしても「得意の内股が返されたのだから仕方ない」と言って引退を決めたいさぎよい姿勢こそ、日本柔道の鑑と言える。
しかし、石井の柔道は井上と対極にある。「一本」は捨て、とにかく相手に自分の柔道をさせず攻勢を保って優勢勝ちを呼び込む。相手をキレイに投げ放つことでなく、あくまで勝利にこだわる姿勢を貫く。
「一本を狙うことはリスクを伴う。一本でなければ勝てなかったり、オリンピックに出場できないのなら狙いますけど、違いますよね? 僕は勝つことに対してハングリー。だから一本は必要ないっす」
日本のすべての柔道家が憧れる舞台であり、「五輪で勝つことよりも難しい」と例えられる全日本選手権も、石井にしてみれば「しょせん、日本の大会。ちっちゃい、ちっちゃい。あくまでオリンピックの予選でしかない。僕の目標は世界」と言い切るのだ。


