『バイス』
イラクの核兵器開発をでっち上げ、戦争へと導いたディック・チェイニー副大統領の伝記映画。1960年代半ば、ただの飲んだくれ青年だったチェイニーは、妻の叱咤激励により政界を目指す。みるみる頭角を現した彼は、やがて副大統領の地位まで上り詰める。
監督:アダム・マッケイ、主演:クリスチャン・ベール、エイミー・アダムスほか。4月5日全国公開。
『バイス』とは「副」の意味で、「史上最強の副大統領(バイスプレジデント)」と呼ばれたディック・チェイニーの伝記映画である。
チェイニーはブッシュ大統領を操り、イラク戦争に導いたといわれた。冷徹で、頭が切れる陰謀家、ダース・ベイダーのような黒幕、それがチェイニーのパブリック・イメージだった。
「チェイニーはアメリカの政治を操り、世界の歴史を変えた」。『バイス』の監督アダム・マッケイは言う。「でも、チェイニーが何者なのかアメリカ人ですらよく知らない。だからこの映画を作ったんだ」。
『バイス』は、1962年、クリスチャン・ベール扮する21歳のチェイニーが酔っ払い運転で逮捕されるところから始まる。
チェイニーは負け犬だった。多くの政治家を輩出した名門イェール大学に入るも、成績不良で叩き出される。チェイニーの最終学歴は地元の公立ワイオミング大学。現在の全米大学ランキングでイェールは3位だがワイオミングは183位。そして、チェイニーが就いた職業は、ワイオミングの荒野に立ち並ぶ電信柱に電線を架設する作業員。人生の出発点でつまづいたチェイニーは、毎晩飲んだくれて酔っ払い運転で逮捕される(2度も!)。
酔っ払いの劣等生という点でブッシュと同じだが、ブッシュは成績不良でもなんとかイェールを卒業しているのだ。
チェイニーを救ったのは、 妻リン(エイミー・アダムス)だった。優等生のリンは「あなたに懸けた私を失望させないで」と夫にハッパをかけ、奮起させる。ブッシュを操っていたチェイニーを操っていた黒幕の黒幕は、奥さんだったのだ。
「まるでマクベス夫人だなあ」。そう思うと、劇中のナレーターが観客に向かって「チェイニー夫妻の関係は2人にしかわからないので、ここはシェイクスピアの芝居風にしましょう」と言い、チェイニーとリンがシェイクスピア風の古い英語でラブシーンを演じる。
『バイス』は時にコメディ、時にドキュメンタリー、時にテレビのバラエティ番組のように、縦横無尽にスタイルを変えていく。アダム・マッケイ監督はアメリカのお笑いバラエティ番組『サタデー・ナイト・ライブ』のスタッフで、毎週、アメリカの現役の政治家をコメディアンに演じさせる時事コントを、何年間も演出していた。
一番の仕掛けはナレーター。カートという名の、アメリカの田舎に住む中流の労働者。神と国を愛し、ブッシュやトランプに投票しそうな白人。その名もなき庶民、サイレント・マジョリティがなぜアメリカの黒幕チェイニーの物語の語り部なのか? その謎は最後に明らかになる。
チェイニーはニクソン政権の補佐官ドナルド・ラムズフェルドのスタッフとして国政に食い込み、父ブッシュ政権の国防長官に任命された(ベトナム戦争時は何度も徴兵から逃げた、軍隊未経験者にもかかわらず)。
その後、油田開発と災害復興企業ハリバートンに天下りしてCEOに就任。子ブッシュに誘われて副大統領になり、9・11テロ後、テロと無関係なイラクに攻め込んだ。イラクが核兵器を開発しているという口実を掲げ、それを否定したCIAの報告を握りつぶした。
ワイオミング出身のチェイニーは狩りと釣りが大好き。フライフィッシングのように、毛針で国民やブッシュを騙して釣り上げる。だが、悪事を重ねるごとに、口の端が引きつったように上に捻じ曲がっていく。体重を20キロ増やしてチェイニーを演じたクリスチャン・ベールは「内面の葛藤がストレスで口に出たんだろうな」と分析している。
テロ容疑者への水責めや国民の盗聴を推し進めたチェイニーは、ハートレス(心がない)と言われたが、実際に心臓疾患でハートを失い、移植された心臓で生き延びている。イラク戦争で愛する誰かを失った人のハートかもしれない。ちなみに「バイス」には「悪徳」の意味もある。
「こんな映画、左翼リベラルのでっち上げだ!」と怒る人もいるだろう。マッケイ監督はそれを見越して、そう叫ぶ観客まで登場させている。こんな映画、日本で作れる?
まちやま・ともひろ
映画評論家。サンフランシスコ郊外在住。『映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』 (新潮文庫)、『今のアメリカがわかる映画100本』(小社刊)など著書多数。