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更科修一郎の「批評なんてやめときな?」【65】

宅八郎の逝去から、オタクの歴史を考える……幽霊、批評家は文化的背教者なのか。

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――ゼロ年代とジェノサイズの後に残ったのは、不愉快な荒野だった?生きながら葬られた〈元〉批評家が、墓の下から現代文化と批評界隈を覗き込む〈時代観察記〉

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宅八郎以前のオタク文献はこれくらいだが、いま読むと発達障害の症例集にしか見えないあたり、野蛮な時代だったんだなと思う。

 ほんの一瞬だが、宅八郎が亡くなった件が騒がれていた。90年代悪趣味サブカル文化の衰退後、表舞台から姿を消していたから、そりゃそうだろうな、と思ったが、よく見ると反応の温度差は激しかった。

 当時、テレビや雑誌でその姿を見ていたが、宮崎勤の事件を戯画化した一過性の悪趣味サブカルタレントという認識で、特に思うことはなかった。だが、年上の「濃い」オタクは軒並みブチ切れていた。彼らは「宮崎事件のサバイバーは、奴へ石を投げる権利がある」と言うのだが、筆者にはその「怒り」がいまいちわからない。横浜育ちで事件当時は海外にいたからかも知れないが、オタク趣味を嗤われたことはあっても、虐められた経験がないのだ。むしろ、テレビゲームなどのインドア文化が普及したことで、体育会系人種からのいじめがなくなり、普通の小中学生として生きることができた。しかし、帰国後、サバイバーたちと「怒り」を共有できなかった筆者は、事あるごとに自己批判を強いられた。なので、90年代は彼らの行動規範を内面化するように演じていた。当時の筆者が、彼らを顧客とするマニアックな商売に携わっていたからだが、結局、ありもしない「怒り」を抱くことが馬鹿馬鹿しくなり、人間関係ごと切り捨てた。この頃、批評家を名乗ったのも違和感を言語化したかったからで、筆者の「怒り」はむしろ、宮崎事件のルサンチマンで作られたオタク文化へ向けられていた。

 00年代以降、経済的発展を遂げたオタク文化は虐げた者たちの頬を札束でしばき上げることで社会に許容された。それでも、サバイバーたちは過去の恨みを抱き続け、30年間変わらず「消費こそが、所属する文化の発展と勝利に繋がる」と信じている。彼らを律してきた行動規範とやらも、同じ共同体の「貴族」から与えられたカルト的な「教義」に過ぎないのだが。

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