サイゾーpremium  > 特集  > 本・マンガ  > 【斎藤佑樹】ブームを作ったスポーツ誌の功罪
第1特集
ハンカチ王子の悲劇はスポーツ誌から始まった!?

"ハンカチ王子"斎藤佑樹は復活できるか 野球雑誌が彼にもたらした功罪

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●高校からプロまで、これで読める
斎藤を愛した雑誌たち

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●卒業後もよく出てました
「輝け甲子園の星」

日刊スポーツ出版社/75年創刊/840円
スポーツ紙の出版部門から発行されている、高校野球の特集雑誌。予選大会から、チーム、選手の分析までを行う。隔月刊行。斎藤は高校3年夏の優勝後から卒業ぎりぎりまで、たびたび表紙を飾った。


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●老舗中の老舗、プロからアマまで
「週刊ベースボール」

ベースボール・マガジン社/58年創刊/500円
国内で最も古い野球専門週刊誌。対談・インタビューからノンフィクション、分析系まで、幅広い企画が誌面を賑わす。春夏の高校野球に際しては別冊(増刊)が必ず発売される。


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●総合スポーツ誌の先駆者で生き残り
「Number」

文藝春秋/80年創刊/550円
正式名は「Sports Graphic Number」。ノンフィクション系スポーツ誌の代表格であり、ドラマチックな独特の文体で知られる。斎藤も、たびたびこの「Number文体」でのインタビューをされている。


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●ドラフト特集が毎年充実
「アマチュア野球」

日刊スポーツ出版社/04年創刊/950円
NPBがメインの「週べ」に対し、小・中・高・大学生、社会人のアマチュア球界を対象とした雑誌。斎藤に関しては、ドラフト年である10年に「斎藤世代解禁」と題した特集号で表紙を飾った。


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●雑誌掲載ページ数で見る
「斎藤佑樹」報道量変化
雑誌の図書館・大宅壮一文庫で「斎藤佑樹」の名前を検索し、ヒットした雑誌の中から彼の関連記事をページ数でカウント。彼が世に出た06年から13年にいたるまで、毎年どれだけ雑誌が取り上げてきたのかを数字で見てみよう。
※検索対象は13年12月20日時点での大宅文庫所蔵雑誌まで。

 2013年の球界は、東北楽天ゴールデンイーグルス・田中将大の年だった。シーズン24連勝という世界記録を打ち立て、チームを日本一に導いた“神の子”は、今や球界の枠を超えた国民的ヒーローだ。

 一方、田中の大活躍の陰で、かつてのヒーローが存在感を失いつつある。「ハンカチ王子」こと、斎藤佑樹だ。今やネットでは過去のテレビでの発言を元ネタに「カイエン青山」などと蔑称が付けられ、彼の発言が報じられるたびに「またこいつは」と批判される流れすらできてしまっている。

 昨年、斎藤は右肩の故障によってシーズンの大半を二軍で過ごし、メディアに取り上げられる機会も激減した。活躍していないのだから仕方ない。しかし野球ファンからしてみれば、「これまでさんざん持ち上げてきたくせに……」とメディアの節操のなさに疑問を感じてしまう。そもそもスポーツメディアは、果たして彼をフェアに扱ってきただろうか? ここでは、そんな疑問を胸に、彼をめぐるスポーツ専門誌の記事を振り返りながら、「斎藤佑樹の報じられ方」を追ってみたい。

 06年夏の甲子園まで、斎藤は好投手のひとりであったにすぎない。雑誌の図書館・大宅文庫で彼の名前を検索すると、最初にスポーツ誌に登場するのは「輝け甲子園の星」06年1月号だ。掲載されているのはモノクロ企画の1ページ。同学年の田中や前田健太(現・広島東洋カープ)がすでにさまざまな野球雑誌のカラーページで取り上げられているのに比べると、小さな扱いである。そんな地味なエースが早稲田実業を18年ぶりにセンバツの舞台へ引き上げ、準々決勝まで進出。少しずつ注目を集めるようになり、迎えた夏の甲子園決勝では、駒大苫小牧のエース・田中との伝説の投げ合いを制し、早実を初優勝に導いた。この日を境に、斎藤は一躍時の人となる。

「9イニングを投げるためのペース配分はまさにプロ顔負け」(「週刊ベースボール」06年9月18日号)

「桑田真澄(巨人)の姿が斎藤と重なって見えてくる」(「Number」06年9月21日号)

「間違いなく彼は正真正銘の“怪物”だった」(「アマチュア野球」06年10月号)

 スポーツ誌はさまざまな形容でもってニューヒーローを称賛した。

 斎藤が高卒即プロ入りする可能性を踏まえ、プロでの通用度を測る記事も組まれた。例えばヤクルトスワローズのスカウト・宮本賢治氏(当時)は、スタミナと投球術を高く評価しつつも、「現在、実力よりも人気先行かもしれない」とメディアの過大評価に疑問を投げかけている(「SPORTS Yeah!」06年9月21日号)。

 甲子園発のニューヒーローを国民的大スターに育てたいメディアと、選手の将来を慎重に考える専門家との間の温度差。これは、この後もずっと続くことになる。

 結局斎藤は06年9月、大学進学を表明。ここから早大野球部で始動するまでの数カ月間は、彼の人間性、野球哲学にスポットを当てたインタビューや、田中とのライバル関係を強調するようなルポルタージュ記事が増加する。4年後のプロ入りを見据えて、メディアは斎藤の「ドラマ性」を育てることに傾倒していった。スポーツ誌編集者は「この時期、斎藤を大きく扱った雑誌はよく売れた。甲子園のヒーローがしばらく不在だったので、メディア側もこの好機には全力で乗っかった。週刊誌などでも、表紙にすると売れ行きがよかったそうです」と証言する。

 あまりの盛り上がりに、もはや「見出しに“斎藤”“佑ちゃん”が入ってればなんでもOK」なのか、直接斎藤とは関係ない話であっても彼を話題に絡めた記事も散見された。例えばそのひとつが、当時導入されて間もないプレーオフ制度(ペナント終了後、リーグ上位3球団がトーナメントを行い、日本シリーズ出場球団を決めるシステム。いわゆるクライマックスシリーズ)に対する批判記事だ。

 野球評論家の豊田泰光氏は連載コラムにて、プレーオフを「伝統的なプロ野球のスタイルを崩す改悪制度」と主張。真剣勝負の醍醐味が失われつつあるから斎藤もプロに失望して大学進学を表明したのだ、と引き合いに出す(「週刊ベースボール」06年10月2日号)。スポーツライターの玉木正之氏も、甲子園という短期決戦の中で生まれたハンカチフィーバーのような盛り上がりを期待してプレーオフをやるなら、それは興行として間違っている、という論調でコラムを執筆している(「SPORTS Yeah!」06年10月5日号)。

 あるいは、さらなる変わり種としては、キャッチャー適性を持つ別ポジションの選手を探す企画。斎藤の持つ洞察力、身のこなし、フィジカル、闘争心などが実はキャッチャーにうってつけだと紹介(「アマチュア野球」07年2月号)。「捕手でも超一流になれる」という太鼓判を、今の斎藤ならばどう読むだろうか。

大学野球じゃ地味? 人間性重視の08~09年

 続いて大学時代を見ていこう。斎藤が1年生の07年、リーグ戦春秋連覇を果たした早大。その原動力となった斎藤は、春季は最多勝とベストナイン、秋季は最優秀防御率、最多勝、ベストナインに輝くなど、タイトルを総なめにした。

 メディアは、期待以上の活躍をしたヒーローを、試合レポート、ノンフィクション、インタビューなど、多様なスタイルで称賛。いわく「『王子』颯爽デビュー」(「週刊ベースボール」07年4月30日号)、「伝説の序章」(同6月11日号)、「挨拶代わりの無失点」(「Number」同5月10日号)etc……。

 この頃の記事を読むと、斎藤自身が熱狂に慣れ、期待される「斎藤佑樹」像を引き受けるようになったことがうかがえる。翻ってそれは、冒頭で記したように現在の彼が批判されたり嘲笑される原因のひとつであるビッグマウスの片鱗を見せることにもなっている。

「4年後には誰も手のつけられないようなピッチャーになりたい」(「週刊ベースボール別冊」07年6月23日号)

「世間が抱く斎藤佑樹像はけっこう気に入っている」(「Sportiva」07年9月号)

「(ルーキーイヤーに11勝を挙げた田中について)プロへ入ったら、それ以上の成績を残せる投手になりたいと思います」(「週刊ベースボール増刊」07年11月17日号)

 こうした強気な姿勢の意図について、斎藤は「マスコミに強気な発言をして、それで強くなっているというのがある」(「Sportiva」07年5月号)と語っている。自身に過大なプレッシャーを与えることで成長するため、自ら「佑ちゃん像」を背負う野球人生を選んだのだ。それが、スターの登場を待望するメディアの思惑と一致していたのだろう。07年の斎藤のスポーツ誌への露出は、06年とほぼ同等の記録を数えた。

 ただしその中には、「(直近の試合での投球を見て)すごいという印象はなかった」「(フォームについて)軸足のヒザを折るのは、僕は否定派ですね」(「週刊ベースボール」07年6月11日号)など、早大OBの小宮山悟氏(千葉ロッテほか)による冷静な分析が含まれていたことも記しておきたい。

 斎藤が大学2年生になる08年、この時期メディアは、彼の“新たな一面”にアプローチし始める。早実時代の仲間が大学野球部を辞めていくことへの苦悩を本人に語らせたり(「Number」08年4月10日号)、バッテリーを組む先輩捕手・細山田武史(現・福岡ソフトバンクホークス育成選手)との対談では、軽妙な掛け合いの中で後輩キャラを引き出してみたりする(「週刊ベースボール増刊」08年4月12日号)。

 成績的には大学4年間の中で最も活躍した年であるが、記事の量や内容には前年ほどの盛り上がりが見られない。淡々と大学野球において勝数を積み重ねているだけではどうにも地味、ということだったのだろう。メディアの中でも世間的にも斎藤に対する“活躍慣れ”が起き、雑誌の部数を伸ばすためにより強力なトピックが求められる時期だったと考えられる。

 そして09年は、斎藤にとって挫折の年だった。先にプロ入りした田中はすでに圧倒的な成績をたたき出すようになっており、野球ファンの間では、いつまでも2人をライバルとして扱うことに疑問の目が向けられ始める。

 しかしスポーツ誌はあくまでこのアングルを捨て去らず、大学リーグでライバルが出てこないと嘆く斎藤に対して「やはり究極のライバルは田中?」と質問を投げかける(「週刊ベースボール」09年5月11日号)。

 とはいえ、この年、斎藤は球速を追い求めた結果フォームを崩し、思った投球ができなかった。田中に追いつけ追い越せどころの状況ではなかったのだ。それでもまずまずの成績が残せたのは、各誌が高校時代から高評価をしてきた斎藤の「場を支配する能力」、ゲームメイク力の賜物ということなのだろう。これをうまく表現しているのが、「Number」09年8月20日号の「中田翔を変えた斎藤佑樹の17球」だ。日ハムのスラッガー・中田翔に06年夏の甲子園での斎藤との対戦(早実VS大阪桐蔭)を振り返ってもらう記事だが、当時4打数無安打3三振と惨敗を喫した彼は、その映像を見ながら「打てない球ではないんです」と何度も繰り返している。

 迎えたドラフトイヤーの10年。斎藤を待ち構えるプロの世界が姿を現し出した。

 前出の小宮山氏は、「理屈でいうと、斎藤投手のピッチングフォームは理に適っている部分を探す方が難しいレベル。(中略)このままでは、プロ入りしてローテーションとして年間30試合近く先発し、200イニングを投げるのは無理だと思います」(「アマチュア野球」10年5月号)と再び辛口コメント。あるいは、「K/BB(奪三振数÷与四球数)」という制球力と三振奪取力を測る指標を用いて斎藤世代を分析する企画も(「アマチュア野球」10年10月号「データで見るドラフト候補」)。この数値が3以上だとプロ即戦力の目安になるというが、斎藤は3.20でギリギリ合格点というなんとも微妙な結果だった。

 高校卒業時のように順風満帆な滑り出しとはいかない、不穏な空気を漂わせながら、ドラフト会議では4球団の競合。最終的に、日ハムへの入団が決定した。

入団で再フィーバーも2年目の怪我で沈静化

 待ちに待ったルーキーイヤーである11年、スポーツ誌は06年並みの盛り上がりを見せる。春季キャンプで沖縄に入った斎藤を追いかける観光プラン紹介という、マナー的にだいぶギリギリな企画も存在した(「週刊ベースボール」11年2月7日号)。

 この年の前半に誌面を賑わしたのは、ルーキー世代、そして斎藤がプロで通用するかをあらためて問う記事だが、特筆すべきは堀内恒夫氏、山本浩二氏、若松勉氏、東尾修氏という元監督4名がルーキー世代を語る企画だ(「週刊ベースボール臨時増刊」11年2月10号)。堀内氏は「伸びシロ不足」として将来性に疑問を、山本氏はスピード不足に懸念を示す。このあたりの見解は4人とも一致した。こうした専門的な指摘こそスポーツ誌ならではの醍醐味であるはずだが、期待のルーキーに対して「それほどでもない」と堂々と書くのは、球界とのつながりで誌面を作るメディアには難しくもある。球界のご意見番たる面々の発言だから、陽の目を見た内容だろう。

 そして迎えた4月17日のプロデビュー戦。斎藤はストレートの調子が悪いながらも制球力の良さを生かし、5回4失点で勝利投手に輝いた。続く2戦目では一転してストレートを封印、変化球一辺倒のピッチングで2勝目を手にする。

 斎藤は直球主体の本格派投手を志向していただけに、2戦目の投球に周囲は驚きを隠せなかった。チームの勝利を背負い、その役割を果たすことを選んだという意見もあったが、一貫性を欠いた姿勢に厳しい視線を送る専門家もいた。

 そのひとりが野球評論家の江夏豊氏。「速球と変化球の投げ分けが今ひとつ。相手打者が斎藤に慣れたときに痛い目を見るので、やはり速球を増やすべき」(「週刊ベースボール」11年5月23日号)と主張した。また前出の野球評論家・豊田氏は、「佑ちゃんを本当に育てようと思ったら最低7回までは投げさせんと」と起用法に疑問を呈している(同)。

 こうした声に対し、メディアは日ハム陣営の反論も紹介する。

「リリーフ陣がしっかりしている今のチームにあって、5回、6回までしっかり計算できる投手こそが必要とされていた。ほかの投手との比較で、最も安定していて、ゲームメイク能力は斎藤が一番という判断でスカウトし、その通りの結果を残している」(「週刊ベースボール別冊」11年7月5号)

 結局、斎藤は6勝6敗、防御率2.69というまずまずの成績を残し、ルーキーイヤーを終えた。さらなる活躍を期待したメディアは、12年に入ると「今年は飛躍の年になる」と口を揃えた。そして、それはすぐに現実のものとなる。

 開幕投手に指名された斎藤は、その期待に応え、9回1失点で堂々の完投勝ち。その勢いで、4月までにプロ初完封を含むハーラートップ(勝利数争い“ハーラーダービー”首位)の3勝を挙げた。

 この予想以上の活躍に各誌は大盛り上がり。「週刊ベースボール」12年5月14日号では、「(斎藤の高校、大学時代の実績は)過去の栄冠として見るべき」と、プロの中でも好投手であることを強調。さらに、野球解説者の森繁和氏(現・中日ドラゴンズヘッドコーチ)が、「打者が何となく斎藤ペースに巻き込まれて打ち取られるのは、斎藤の独特のピッチングフォームにある」(「週刊ベースボール」12年5月21日号)と、“悪癖”とされていたフォームに一定の理解を示すなど、ようやく専門家も斎藤を肯定的に捉えるようになった。

 しかし、プロの世界は甘くない。斎藤は5月以降、2勝7敗と大きく崩れ、チームの2年ぶりのリーグ優勝には貢献できずじまい。12年の夏を境に斎藤の報道は急減した。その後、日本シリーズのマウンドで右肩を負傷。翌シーズンをリハビリと二軍調整で過ごすことが決まった。こうして13年、「斎藤佑樹」の名前がスポーツ誌に登場する機会は片手で数えられる程度に落ち込むことになる。実際「日々の状況を報じるスポーツ紙と違って、雑誌にとって13年の斎藤はニュースバリューがまったくない。復活を果たせば『どん底から這い上がった、かつての王子』というドラマが描けるので、その時には期待していますが……」と前出のスポーツ誌編集者も述べる。当の斎藤はリハビリ中の13年春、こんな言葉をこぼしている。

「焦るなと言われてもやっぱり焦りますよね」(「週刊ベースボール」13年4月22日号)

 6月にリハビリを終えた斎藤は、二軍で調整を重ね、シーズン終了間際に1試合1軍で登板した。4回6失点で降板し、復帰戦を勝利で飾ることはできなかったが、その後も調整を続けている。今年の元日インタビューには、吹っ切れたような言葉が並んでいた。

「1勝したら、(新聞などは)完全復活って書くでしょ? 僕の中では、そんなんどうでもよくて。1年間、先発ローテーションで回ること。それが復活というか、成長」(日刊スポーツ1月1日付)

 かつてはメディアに対してリップサービスと思われる発言を数多行い、期待される姿を少なからず演じてきた斎藤が、「どう書かれるかはどうでもいい」と言う。そして、一流選手として最低限のラインに目標を設定しているのは、斎藤のプライドだろう。各種メディアで持ち上げられ続けてきたことが、彼の野球人生を変えなかったはずはない。野球選手としてどう振舞うかなど、別に考えなくてもよいことのはずだ。1年間メディアと距離を置き、自分自身と向き合ったことで芽生えた覚悟を胸に、2014年、斎藤佑樹が復活の狼煙を上げることに期待したい。

(文/下元 陽 BLOCKBUSTER)

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