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第1特集
「本」「映画」に見る、ファッションのタブー性の根源【1】

つきまとう”色”と”模様”の禁忌──ファッションタブーに挑む「本」「映画」

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――美しく着飾りたい──。その欲求は、あるいは文明の歴史と同じくらい長いのかもしれない。身に着ける衣服や装飾品によって、人は自らの身分や職域を誇示し、己を権威づけてきた。そんな、いわばファッションの持つ本質と、そして「だからこそ生じるファッションのタブー」に切り込んだ本、そして映画を、ファッションに知悉した識者の弁に基づいて、ひもといてみたい。

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『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫)

 ギャル男にゴスロリ、ヤマンバギャル……。徒花のようなファッションが栄えては廃れていった現代日本のファッションシーン。アニメやゲームの格好に扮したコスプレさえ、最近はいろいろな機会に街で見かけるようになり、もはや「普通でないファッション」など存在しないかのように見える。

 確かに、ファッションは、最初はそれがどんなに奇抜なものであっても、多くの人が共有すると同時に凡庸なものとなってしまう側面を持っている。そういったファッションの持つアンビバレントな側面について、哲学者・批評家で、ギャル男のトランスジェンダー性などについても考察している千葉雅也・立命館大学大学院准教授はこう話す。

「ファッションとは、装いによって自分を際立たせるための手段といえます。しかし一方で、チャレンジングな格好をするといっても、突飛に過ぎては逆効果になる、というバランスの問題を常にはらんでいます。つまりファッションとは、人間のアイデンティティや社会の規範に対する疑いを引き起こすもの。ファッションについて真剣に考えると、人間の根本的な不安、ゆらぎ、そして社会に対する批判といったものを惹起することになるんです。それこそが、まさに“ファッションのタブー”ではないでしょうか」

 そこで、千葉氏がまず取り上げるのが、『20世紀ファッションの文化史』【1】だ。

「これはそんなに難しいことが書かれているわけではなくて、著名なデザイナーたちの経歴を紐解いていく中で、近現代のファッションがどうやって成立していったのか、という過程を浮き彫りにしていく本なんです。根底にあるのは、大量生産とオリジナリティをめぐるファッションの矛盾。ファッションにおいては、デザイナーのオリジナリティが重視され、ファストファッションのような工業製品的なものと対比される傾向がありますが、そもそも有名デザイナーブランドの作品にしても、大量生産品であることは変わらないですよね。オートクチュールのように採寸からはじまって自分ひとりのための衣服を作ることもありますが、世界に一点だけの衣服など、そう簡単にはお目にかかれないでしょう。独自性のあるものを売ろうとしても、商品として広く売っている時点で独自性が失われてしまうから、そこで、どのくらいのスパンで新しいものに切り替えるかとか、あの手この手で希少性があるように見せかけようとする。この、独特なものを求めているのに、それを多売しなければいけないというところに、現代の大衆ファッションが内包している矛盾があるわけです」

 その問題を回避するひとつの手段として行われているのが、コーディネートだと千葉氏は解説する。大量生産品でも、組み合わせ方を工夫することで、独自性を発揮できるというわけだが、その組み合わせ方自体も、ファッション雑誌などが紹介し、定型化されてしまうというのが通例だ。つまり、独特のファッションを身にまとおうとする者は、それらのツールとも戦い続けないといけない。だが、そもそも我々は本当に独自性のあるファッションをしたいと思っているのだろうか? 千葉氏は、その出発点にも疑義を投げかける。

「問題の根本は、『実は我々は真実の希少性なんか欲していない』ということかもしれません。個性を厳密に追求したら、それこそ奇人になるしかないわけで、他人と似ている部分と違っている部分のバランスをどう取るかのせめぎあいこそが、現代ファッションの歴史ともいえるのではないでしょうか」

 ファッションとは、常にそのような危うさと共にあるものであるがゆえに、アイデンティティの不安と密接にかかわっている。その問題を如実に取り扱った書籍として、千葉氏が薦めるのが、『モードの迷宮』【2】だ。現象学が専門の哲学者である鷲田清一・大谷大学教授が、ファッション誌「マリ・クレール」(中央公論社=当時)誌上で87~88年に連載したものの単行本化で、日本におけるファッション批評の代表的な書物とされている。

「この本ではフランス系の思想などを引用しながら、身体の境界やゆらぎについて考察しています。まず『衣服は身体を覆うためではなく、強調し、顕わにするという逆のベクトルを持っているのではないか』という命題が追求される。ファッションとは自己のゆらぎや身体の実感の不確かさと直面することにほかならないという問題意識が読み取れます。序文には『ディスプロポーション』という題がついていますが、これは不恰好、不均衡という意味です。服が似合うとか、あるいは世間的にスリムでスタイルがいいとされているとか、そういった理想に完璧に合わせられる身体なんてありえない。僕たちの身体は服を着ることで、かえって不釣り合いであるという問題から逃れられなくなる、と自覚させられるんです。つまり、オシャレをするとか、ファッションをキメるということは、思い描く姿にピッタリ合わせるのではなく、逆にズレを納得するということ。服を着ることで、ゆらぎは増幅され、決して消すことはできなくなるのです」

 衣服というのは、本来外気から身を守る防御壁の役割を果たしていたはずだが、ファッションにおいては、服を着ることでかえって不安になるというアンビバレンツが存在する。着ていながら着ている気がしない。そんな危うさが、本書でいうまさに“モードの迷宮”であり、そのことがまさに、ファッションにおける境界性と、服が覆っているはずの内側の不確定さを示しているのだという。

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