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萱野稔人と巡る超・人間学【第30回】

宗教の根源と日本人の宗教観

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――人間はどこから来たのか 人間は何者か 人間はどこに行くのか――。最先端の知見を有する学識者と“人間”について語り合う。

人間にとって宗教とはそもそも何なのか。そして、無宗教といわれる日本人に特有の宗教観とは。今こそ考えたい宗教と人間、そして日本人の関わりについて宗教学者の島田裕巳氏に聞く。

今月のゲスト
島田裕巳[宗教学者]

東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在は作家、宗教学者、東京女子大学非常勤講師。主な著書に『創価学会』(新潮新書)、『日本の10大新宗教』、『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)など



萱野 旧統一教会をめぐる問題では、家族の生活を犠牲にしてまで多額の献金を宗教団体にしてしまうという高額献金の現実が改めてあらわになりました。なぜ人々は現代においてもなおそこまで宗教にのめり込んでしまうのか。こうした問いを少しでも解明するために、ここでは宗教学者の島田裕巳さんをお招きして、「宗教とはそもそも何なのか」という問題にまでさかのぼってお話をうかがっていきたいと思います。いきなりですが、そもそも宗教とは何でしょうか。

島田 フランスの社会学者エミール・デュルケムの有名な定義によれば、宗教とは「神聖すなわち分離され禁止された事物と関連する信念と行事との連帯的な体系、教会と呼ばれる同じ道徳的共同社会に、これに帰依するすべての者を結合させる信念と行事である」とされています。すべての宗教に当てはまるわけではないですが、デュルケムは聖と俗が分離していて、信念を共有する共同体が形成されているという2点を宗教の構成要素としていることになります。

萱野 そうすると、たとえば占いなんかは宗教とはいえないわけですね。

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10の戒めの板を持つモーセの画像。(写真/Getty Images)

島田 占いは占い師と客の一対一の関係で行われるもので、共同性、継続性がないという点から宗教行為とはいえないでしょう。先日、テレビの子ども番組に出演した際に宗教の説明として「宗教にはそれぞれ独自のしきたりがある」という話をしたのですが、しきたりに従うということは占いと違い、ある程度の人数が集団となって同じ営みをしていることが不可欠になります。

萱野 集団でしきたりや教義を共有することが宗教の条件だとすれば、原始社会でみられたようなアニミズムは宗教とはいえないということでしょうか。

島田 デュルケムが定義するような宗教は人間社会が発展しないと生まれないものかもしれません。原始的な社会では非常に曖昧な状態だったものが、社会の発展にともなって宗教としてのかたちをはっきりさせていったのだと思います。世界宗教である仏教、キリスト教、イスラム教は、それぞれ約2500年前、約2000年前、約1300年前に生まれていますが、こうした世界宗教が登場し、それが帝国によって広がっていくことで集団性をもった本格的な宗教組織や教義の体系が作られていきました。もちろん、世界宗教誕生以前にも古代宗教の長い歴史があるわけですが、それらは限定的なもので、たとえばバラモン教は集団的な広がりをもたず、当時の支配階級だったバラモンと一体化した独占的な実践にすぎませんでした。

萱野 世界宗教が広がる以前から、世界のいたるところで原初的な宗教行為がみられたということは、そもそも人間には宗教を生じさせ、それを受け入れるような心性があるということでしょうか。

島田 人間が言語をもちいるということが大きいと思います。言語を使うことによって目に見えない事物について語ることができるようになったわけですが、そこで「人間を超えた超越的な存在」が表現できるようになるわけです。たとえば、自然現象について今は相当程度、科学的な説明をすることができますが、昔は嵐や地震がなぜ発生するのかを説明することができません。そこで自然の脅威を感じたときに、その根本となるものを神などとしてとらえる感覚が生じ、それを想像力で補うということがあったのでしょう。

萱野 人間にはその原理がよくわからないものでもなんとか言葉で説明しようとする傾向があり、それが人知を超えた存在といったものを想定することにつながっているということですね。

島田 そうですね。さらに文化や技術が発達していくことで人間のコントロールできる領域は広がっていきます。たとえば動物を家畜化して自分たちでコントロールすることができるようになる。そこで自分たちが家畜をコントロールする存在であるという自覚を持つと、今度は、では我々人間はどうなのかという感覚も生じることでしょう。そこで、我々人間を家畜のようにコントロールする上位の存在があるのではないか、と。

萱野 事物をコントロールしようとする人間の意思が、ひるがえって人間を含んだ世界そのものをコントロールする主体へと投影されていくわけですね。それが創造主のような存在を想定することにつながっていく。

島田 そういう存在を考えることで神についての物語が生まれ、神話ができあがり、世界がどのように成立しているのか、だんだんと説明がつくようになっていきます。宗教の始まりにはそうした生きている人間とは異なる存在とその世界があるという感覚があったのだと思います。その際に、人間が死をまぬがれないという根本的な問題があったからでしょうね。死後の世界がどういうものかを、また考えるようになっていきます。

萱野 人間はどうしても、世界はどう成り立っているのか、現実がこうなっている根本原因はどこにあるのか、といったことを考えてしまう存在で、それを説明するのが科学なのか宗教なのかという違いはあるとしても、考えてしまうという点は人間の本質として変わらないのでしょう。

島田 科学的な思考や技術が少しずつ発展していっても、まだまだ説明できない領域はたくさんあるので、宗教的な意味づけをすることが多かったはずです。我々の目からすると呪術的に見えるようなことであっても、当時の人からすれば、今でいう科学でもあり宗教でもあるという両方の側面があったのでしょう。

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