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小原真史の「写真時評」【111】

北の玄関口はこだて

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――過去から見る現在、写真による時事批評

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撮影者不詳「アイヌ学校職員と生徒」1892~98年頃、函館市中央図書館蔵

「写真発祥地の原風景 幕末明治のはこだて」展(東京都写真美術館)を訪れたのは、ちょうどロシアによるウクライナ侵攻が始まった頃だった。この展覧会には箱館が函館という名称に変わる幕末から明治期の写真や資料が多数展示されているのだが、この地におけるロシアの影響ばかりに目がいってしまった。そして、自衛やロシア系住民保護の名目で侵略戦争に踏み出し、国際的に孤立してゆく現在のロシアの姿から想起されたのは、満州事変と上海事変を起こした後、泥沼の長期戦へと転がり落ちていった大日本帝国の1930年代なのだが、それはまた別の話だ。

1853年にプチャーチン率いるロシア艦隊(2枚目)が長崎に来航し、翌年に改めて箱館に来航すると、55年2月に下田で日露和親条約が締結された。前年にアメリカとの間で結ばれた日米和親条約で開港させられていたのが、下田と箱館だった。松前藩の頃から港湾都市として栄えていたこの地には、その後、ロシア領事館が置かれ、急速に近代都市としての外観を整えてゆくことになる。国土開発に伴うさまざまなインフラ――道路、鉄道、港湾、水道、役所、学校、博物館、銀行、公園――が整備されていく様子が北海道に拠点を置いた写真師たちの手で数多く残されている。当時の写真が最新のテクノロジーだったことは言うまでもないが、外光を取り込むためのガラスをふんだんに使用した写真館もまた、「開化」を象徴する建築物だったはずだ。

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作者不詳『魯船入港記』1854年、函館市中央図書館蔵

写真師の田本研造や木津幸吉が箱館でロシア領事のゴシケーヴィチや領事館付属箱館病院の医師ザレスキーらとの交流の中から写真術を教わり、函館に写真館を開業したことからもうかがえるように、同地は異文化との「コンタクト・ゾーン」(メアリー・ルイーズ・プラット)と呼べる場だったのではないだろうか。「コンタクト・ゾーン」とは、例えば西洋諸国と非西洋のように異なる言語・文化が接触するチャンスが生起する空間のことを指すが、プラットによれば、宗主国と植民地のように支配と従属という「非対称的関係」において生じることが多いという。

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井田侾吉「千島アイヌ」1878年、市立函館博物館蔵

19世紀の日本が植民地化されることはなかったものの、その脅威に備えるためにも近代国家としての要諦を整えねばならなかった。隣国との国境画定は、その第一歩だろう。74年の台湾出兵が、琉球の帰属をめぐって行われたものだったように、日本列島の南端と北端において防衛すべき国土の範囲を決定することが急務だった。

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