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更科修一郎の「批評なんてやめときな?」【70】

幽霊、時代を映し出す大河ドラマ史。

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――ゼロ年代とジェノサイズの後に残ったのは、不愉快な荒野だった? 生きながら葬られた〈元〉批評家が、墓の下から現代文化と批評界隈を覗き込む〈時代観察記〉

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テレ東の再ドラマ化では沢田研二のチャーリー田宮をムロツヨシが演じたが、『まんぷく』の岡崎体育はひどいパロディであった。

東京五輪開会式、90年代サブカル業界人辞任ドミノの一方で、ゲーム音楽が入場行進曲に使われ、筆者と同じ氷河期世代のオタクが喝采を送っていた。まあ、長年日陰者だったから「やっと報われた」と喜ぶ気持ちはわかるのだが、こういう救済が何度繰り返されても、宮崎勤事件とオタクバッシングのトラウマを忘れることはない。彼らの信仰は「選ばれし者の受難」によって支えられているからだ。小山田圭吾の辞任報道も渋谷系嫌いの80年代バンドブーム世代が煽りまくり、ジャンル内世代闘争に大義名分を与えただけだった。どちらにしても氷河期世代のノスタルジーに依拠しすぎて、上と下の世代は白けていたし、メインカルチャーの不在を痛感するというか、森喜朗がねじ込んだ灰皿テキーラ海老蔵がそれを代表してしまうことが一番の虚無だ。森山未來のコンテンポラリーダンスは良かったが。

森山もそうだが、聖火ランナーで金栗四三モードの中村勘九郎が走ったこともあり、開会式前日に『いだてん』総集編が放送されていた。海老蔵歌舞伎の中国人差別問題があったからか、関東大震災で朝鮮人と間違われた金栗が襲われる場面や、孫基禎と播磨屋足袋店のエピソードは丸々カットされたが、物語の核にあるユダヤ人通訳の自殺や、田畑政治が嘉納治五郎に言った「いまの日本はあなたが世界に見せたい日本ですか」は削れなかったので、本放送当時よりも洒落にならなくなっていた。こうなってしまうから、NHKは近代大河をやりたがらないのだ。

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