サイゾーpremium  > 特集  > カニエ・ウェストがラフ・シモンズのインターンに!? パリコレ化する21世紀ヒップホップ

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――今や、ラッパーがモードなアイテムを身に着け、パリのビッグメゾンもヒップホップの要素を取り入れている!?21世紀のヒップホップとパリコレの関係について、両方に詳しい菊地成孔氏に話を訊いた。

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16年度グラミー賞5部門を受賞したケンドリック・ラマーのMV「Alright」より

「ブラック・ミュージックのファッションは奇矯に始まり、やがてスーツ化する」。これは、20世紀で明らかになった法則です。ジャズ、ファンク、ヒップホップ……どのブラック・ミュージックにも共通してますね。最初は黒人たちが、古着等々をうまく工夫して、かなり奇矯なウェアリングを創作するんですが、やがて音産の中で立場を得てくると、ヨーロッパのモードを身に着け始めるわけです。特にアフロアメリカンの人々には、社会的なコードとは別に、単にスタイリングして、スーツ(や宝石)が似合う素地があるので、つまり始まりから終点まで問題がありません。

 この周期の元をたどればジャズで、40年代にズートスーツ等の奇矯なスタイリングをしたビバッパー【注1】が60年代にスーツ化した。なかでもマイルス・デイヴィス【注2】の変遷が極例で、最晩年にヒップホップに挑戦したアルバム『ドゥー・バップ』(92年)のジャケット写真では足元がトリミングで見えないのですが、アルバム・ケースを開くと、なんと裸足の写真が現れる。ヒップホップではシューズが重要なアイコンですが、当時の彼が履いていたのはアディダスのスーパースター紐なしなのか、ナイキのエア・ジョーダンなのか、わからない(笑)。この「20世紀の最大の謎」(笑)については、大谷能生との共著『M/D』(エスクァイアマガジンジャパン)をお読みいただければと思いますが、ヒップホップのファッションに関しては、キャップ、フード、スニーカーといった独自のユニフォーミティがありますよね。つまり、子ども用の運動着を主要素材にしてます。

 とりわけヒップホップが新しかったのは、独特な形で彼らが完成させた後、自分たちでアパレルブランドを立ち上げて服を売り出したこと。しかも、それがCDより売り上げを伸ばすこともあった。20世紀末に現れたこの現象は、21世紀につながる大転換でした。本稿とはあまり深い関係がないのではしょりますが、「20世紀は、〈幼児退行の時代〉」であることの一翼を成しています。キャップにスエットがフォーマルウェアに至る。ということには、そういった大きなバックアップもあります。

パリコレに通ったカニエとファレル

 こうした動きを21世紀に最もスマートにリードしたのは、カニエ・ウェスト【注3】でしょう。2005~06年、彼がパリコレ【注4】に通っているらしいという噂が聞こえてきたんです。

 当時、カニエはモデルのアレクシス・ファイファー【注5】と付き合っていて、ファッション業界も音楽業界も「ストーキングでしょ(笑)」と軽口叩いていたんですが、ワタシは確信しました、カニエにはプランニングがあると。ほどなくして07年10月、「ファッション・ニュース」誌【注6】の連載「服は何故音楽を必要とするのか?」(08年に同タイトルでINFASパブリケーションズより書籍化)のため、ワタシはパリコレの現地取材に行き、ショーの2〜3列目に座りました。すると、フロントロウ(1列目)に世界の王族やビッグメゾン【注7】の経営者、名だたるファッショニスタたちに混じって、カニエがいる! 「あなたは、パリコレとヒップホップのウェアリングを結びつける気ですね?」と一言訊けば、大スクープです。ワタシはドキドキしてショーの終わりを待ちました。ところがショーが終わると、数十台のカメラクルーがフロントロウのVIPに駆け寄るなか、すべてのカメラがカニエをスルーしたんです。その一昨年にグラミー賞3部門を受賞した、時の人をですよ。要は、ファッション業界の大多数は、当時はカニエが誰だか知らなかったんです。その光景の切なさに、ワタシは思わずインタビューを忘れてしまった(笑)。

 代わりにワタシは4人のショー音楽家へのインタビュー(前掲書に所収)で、「カニエ・ウェストがパリコレに来ていることを知っていますか?」と訊いたところ、全員が「ウイ」と言いました。しかし「ワタシの推測では、カニエがパリコレに通うのは、ヒップホップとパリコレのウェアリングを結びつけるプランニングのためだと思うのですが」と切り出すと、「絶対そうだ」「その可能性は大いにあるね」「あるわけないじゃん。目的はモデルの尻、尻、尻だよ、きっと」と、さまざまだった。それほどにヒップホップとパリコレが結びつくイメージが、パリコレ側になかったということです。

 ちょうど、ヒップホップ側が自社ブランドのウェアを売るのが頭打ちになって、ネクストレベルの方角が探されていた時期です。それを「ブラック・ミュージックのファッションは奇矯に始まり、やがてスーツ化する」という法則に照らせば、カニエのパリコレ接近は図式的なほどです。やがてカニエがファレル・ウィリアムス【注8】を連れるようになり、2人がパリコレにいることが、ブラック・ミュージック側にもパリコレ側にも遅まきながら定着していく。また後述しますけど、この時期、ヒップホップがクールジャパンと絡んでいることも押さえておきたいですね。ファレルがNIGO(R)【注9】さんと共同プロデュースする「BILLIONAIRE BOYS CLUB」「ICECREAM」【注10】を立ち上げたのが05年。その後、ファレルは日本と組んで裏原系ウェアをアジア中心に展開する一方、07年頃はシャネル【注11】のショーに選曲されたりDJをやったり、あるいは自身でシャネルを着こなしたりしました。

 このように、パリモードを自分で着てみせるという点ではカニエよりファレルのほうが先でしたが、業界を根底から動かすことに大きく尽力したのはカニエです。なんといっても、当時のカニエはカブいていた(笑)。極度のマザコンであるカニエがビジネスパートナーでもあった母ドンダさんを07年に亡くして、そのご乱心が先頃の大統領選への出馬表明までつながっているわけですが(笑)、07年に3rdアルバム『グラデュエーション』のジャケットに村上隆さんを起用したのはともかく、08年にラフ・シモンズ【注12】のインターンに応募したのがすごい。有名人のお遊びでなく、本気でモード・ファッションを勉強するとカニエが言い出したんです。ラフ・シモンズは「光栄なジョークとして受け止めさせていただきます」と当初かわしたけど、その後、アディダス×ラフ・シモンズのスタンスミスもアディダス×カニエの「YEEZY BOOST 350」もバカ売れ。いまやカニエはラフ・シモンズと並ぶ地位をファッション界に確立した。かつての予兆が10年には既成事実になったわけです。

 しかしながら、ヒップホップがパリコレ化しても、ヒップホップのファンは着られないですよね、高価すぎて。そこでヒップホップ側はどうしたか。象徴的なのが「XXL」【注13】14年10月号、デフ・ジャム・レコード【注14】の30周年記念号です。これはよくできていましてね、「XXL」史上初めてW表紙になっている。オモテの表紙はG-UNITで、20世紀のヒップホップの姿。フードにキャップ、ブリンブリン(口の悪い人は「金メダル」と呼びます)を首から下げて、ダチョウ倶楽部が「ヤー!」とポーズを取るように並んでいる(笑)。一方、ウラの表紙はなんと天地逆で、「VOGUE」【注15】や「ハーパーズバザー」【注16】に引けを取らないスタイリッシュな体裁です。リック・ロス【注17】らがモード・ファッションに身を包んだモノクロ写真で、完全に「XXL」の一角をモード誌化させた。「我々はキッズ相手をやめて、ヨーロッパの大人に向けていきます」という宣言にも見えます。ここにはヒップホップとパリコレ、両者の歩み寄りがある。ヒップホップ側は従来的なフードやブリンブリンとミックスしながら、必ず一点はサンローラン・パリ【注18】みたいなモードのアイテムを身に着けて大人になろうとした。逆に、パリコレ側はヒップホップ・ファッションを発表して若返りを図りました。現在の「ディオールのスニーカーってどうなの?」に至る動きですが、とにかくそうした双方の思惑がぴったり重なった癒着なんです。

ヒップホップに手を出すビッグメゾンたち

 パレコレ側がなぜヒップホップを選んだかといえば、端的に理由は2つ。ひとつは、パリの歴史的性質と周期。もうひとつは、カニエがパリコレへ接近した07~12年はちょうど、現在サンローラン・パリを手がけるエディ・スリマン【注19】不在の時期だったことです。

 まずひとつ目。フランスの文化は伝統がありますが、フランス革命(1789年)でシステムも価値基準も転覆されて以降、パリは根無し草になり、市民はいつでも革命の恐怖におびえるようになった。高価な物ばかり売って貴族的になりすぎると首をかかれてしまう、だから街ではやってる野蛮でセクシーなものに目配せをする。それがパリなんです。極端にいえば、19世紀後半のパリ万博から変わっていないんですよね。当時の万博は、アフリカや東南アジアの人たちを連れてきて踊らせた。有色人種をパビリオンで生活させる「人間の展示」なんてものもあったくらいで……。この100年間、辺境のサブカルチャーを時折取り込むというオブセッションを抱えたパリにとって、ロックやジャズなどのストリート・カルチャーはうってつけであり、21世紀初頭はそれがアメリカのヒップホップだったということですね。ちなみに、これまで直接の癒着関係だったパリとブラック・ミュージックの間では、パリ万博以来のエキゾティシズムとして、先述したカニエやファレルの例のようにクールジャパンが触媒になっている。パリ=日本=ブラック・ミュージックという三角関係は初めてのことです。

 もうひとつのエディ・スリマンですが、20世紀にアレキサンダー・マックイーン【注20】とスリマンの対決という構図がありました。彼らはパリコレに超細身のロック・スタイルを取り込んだ人物です。スリマンは97年にイヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ・オム、00年にディオール・オム【注21】のデザイナーに就任しましたが、「それまでのサンローランやディオールからの継承性がない」「パリのグランメゾンを2つもロック・バンドの衣装に変えた」と毀誉褒貶を受けました。しかし、07年にスリマンがディオール・オムを退陣し、10年にマックイーンが自殺したことで、パリコレからロック・ファッションが一時的に消えた。その間にパリコレ側とヒップホップ側が手探りで接近を図り、ビッグメゾンがヒップホップに手を出していく。なかでも腰を抜かしたのがディースクエアード【注22】でしたね。イタリア貴族的なテーラード・スタイルのブランドがヒップホップ・ファッションを取り入れたのは唐突の感がありました。これはスリマンがしたように、伝統的なメゾンが突如変わってもいいじゃないかという意思表示であるとともに、新しいビジネス・コンテンツとしてヒップホップが発見されたわけです。一時期は売り上げ好調でしたが、結局ヒップホップ側に浸透しなかった。そんななか、12年にスリマンがサンローラン・パリに復帰。それは以前とまったく変わらない細身のロック・スタイルでしたが(笑)、「野球帽とフード」に飽きかけて、大人化をもくろむヒップホップ勢には、これがもってこいだったわけです。その後のパリを概観すると、ディースクエアードはヒップホップをやめ、今度はモスキーノ【注23】がヒップホップになりましたね、輪番制のように(笑)。ケンゾー【注24】はしばらくスケーター・ファッションを続けそうだし、パリコレとストリートの付かず離れずの関係は今後も続くでしょうね。昔ながらの「カジュアルとフォーマル」とは違います、どっちかというと「プチプラと高い服のコーディネイト」に近い。

“作務衣(さむえ)ウェスト”と 大人化するEXILE

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EXILE、三代目J Soul Brothersなどを擁するLDHは、デフ・ジャムを意識してモード化!?

 今後の予想をひとつ。ケンドリック・ラマー【注25】という新世代のラッパーは15年に出した最新作『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』で、「今ジャズ」と呼ばれるロバート・グラスパー【注26】と組み、これまでヒップホップがやったようなジャズのサンプリングではなく、ジャズ・ミュージシャンの演奏にラップを乗せました。そのようにサウンドを大人化した代わりに、ケンドリックのファッションはなんとGAP【注27】風ともいえるボーダーシャツにダメージ・ジーンズというもの。90年代の渋谷系に戻ったかのような青春スタイルともいえますが(笑)、今最も注目されている若手ラッパーのケンドリックがダメージジーンズとは、パリと癒着するデフジャム全体に向けたアンチの表明でしょうね。確かに今は90年代リバイバルの空気もあるので、このスタイルは今後伸びるかもしれません。

 本命のカニエですが、先頃、大統領選出馬宣言が飛び出したMTVビデオ・ミュージック・アワードで着ていたのは、デカTシャツにハーフパンツで「作務衣ウェスト」と言われるくらいでした(笑)。さすがに高価な物だと思いますけど(笑)、おそらくカニエのなかでパリコレが終わったんだと思います。ひとつには体形の問題で、ますます太ったカニエは、もうサンローラン・パリをあきらめなくてはいけない(プロデュースしたロビン・シックのヒット曲がマーヴィン・ゲイの遺族に盗作だと訴えられ、巨額の賠償命令が下されたファレルは痩せたままなので、今もシャネルを着こなしておりますが)。そして大事なことは、ヨーロッパと癒着してみたけど、パリ万博の時代から変わらない視線に、カニエは敏感に気づいたんでしょう。「結局オレたちは変わった動物扱いだろ?」「モダンアートやハイメゾンの服を買う客というのは、ストリートからのリスペクトは得られない」という。だから現在のショーにはカニエもファレルもいない(これにはインターネット中継によってショーの形態と意味が変わったという理由もありますが)。とはいえ、カニエやファレルの方向性のファッションが、ヒップホップ界ではしばらく主流だと思います。彼らはまだやり尽くしてはいないですから。

 そうですね、デフ・ジャムの影響を日本で見るなら……EXILEをはじめLDH【注28】の路線変更がわかりやすいかもしれないですね。オラオラ系ファッションの象徴だったEXILEが、あるいはライブを見るとナチスの党大会さながら謎の旗を掲げて謎の国家を形成していたEXILEが(笑)、クールでシックなスタイルに変わりました。この世から不良系ファッションや謎の国家系が消滅することはありませんが、彼らはそれをやめた。これからメンバーの皆さんは結婚もしていくでしょうし、いつまでも不良や謎の国民でもいられない。大人化して、より息の長いスタイルを目指しているんだと思いますよ。(談)

(構成/五所純子)

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菊地成孔(きくち・なるよし)
1963年生まれ。音楽家、文筆家、音楽講師。85年にプロ・デビューし、ジャズを基本に音楽活動を展開。山下洋輔のグループを経て、スパンク・ハッピー、dCprG、菊地成孔ダブ・セプテットなど様々なグループを立ち上げる。2010年には大谷能生とのヒップホップ・クルーJAZZ DOMMUNISTERSも結成。


【注1】1940年代初期に成立したジャズの一形態であるビバップ、その演奏家の総称。チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、マイルス・デイヴィスなど。

【注2】1926年生まれ、91年没のジャズ・トランペット奏者。ビバップ、クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズ、ファンク、エレクトリックなど、スタイルを変えながらジャズ界を牽引した“帝王”。

【注3】1977年生まれのラッパー、音楽プロデューサー。シカゴ出身。ジェイ・Zのプロデューサーとして頭角を現し、2004年以降にソロ作品を続々と発表。15年現在までグラミー賞を21回受賞。妻はモデル/女優のキム・カーダシアン。

【注4】パリ・コレクションの略。ファッション・デザインの世界的なショー。オートクチュール(高級注文服)とプレタポルテ(高級既製服)の2部門があり、年2回、春夏物(S/S)と秋冬物(A/W)に分けて開催される。

【注5】トップモデル。2002年からカニエ・ウェストと交際、06年に婚約を発表したが、08年に破局。

【注6】INFASパブリケーションズが不定期発行するコレクション・マガジン。パリ、ミラノ、ロンドン、ニューヨーク、東京のファッションショーと展示会を網羅。

【注7】メゾンとは、ブランド、メーカー、会社の意。ビッグメゾンは、長い歴史を持ち、世界的な規模を誇る最高ランクのブランドを指す。トップメゾンも同義。

【注8】1973年生まれのラッパー、プロデューサー。バージニア出身。プロデュース・チームのザ・ネプチューンズ、ヒップホップ・グループのN.E.R.D、そしてソロとして、数々のヒット曲を生み出す。ファッション・デザイナーとしても活動。

【注9】1970年生まれのファッション・デザイナー。A BATHING APEの創業者であり、いわゆる裏原系ファッションの火付け役。A BATHING APEは香港のアパレル企業I・Tへ売却され、現在、NIGO®はフリーランスとして、自身のブランド「HUMAN MADE」やユニクロのTシャツブランド「UT」のディレクターなどを務める。

【注10】ファレル・ウィリアムスとNIGO®が2005年に立ち上げたアパレルブランド(11年より、NIGO®はBILLIONAIRE BOYS CLUBの運営から退いている)。東京、香港、ニューヨークに店舗を構え、裏原系スタイルを世界的に展開。

【注11】1910年、ココ・シャネルの帽子店として始まった、言わずと知れたハイファッション・ブランド。彼女の死後、衰退していたが、83年カール・ラガーフェルドがデザイナーに就任、ストリート・ファッションを取り込み再評価を得た。

【注12】1968年生まれのファッション・デザイナー。ベルギー出身。95年にラフ シモンズを立ち上げる。2003年にジル・サンダーのディレクター、12年にクリスチャン・ディオールのアーティスティック・ディレクターに就任。13年、アディダスとのコラボレーションが話題に。

【注13】アメリカのヒップホップ系ライフスタイル・マガジン。HARRIS PUBLICATIONS,INC.が発行。

【注14】アメリカのレコード・レーベル。ラッセル・シモンズとリック・ルービンによって1984年に創設された。ヒップホップをメインストリームに押し上げた老舗にして、ブラック・ミュージック界において最も有力なレーベルのひとつ。

【注15】コンデナスト・パブリケーションズが発行するハイファッション・ライフスタイル・マガジン。1892年にアメリカで創刊。現在は18ヵ国+1地域で出版されている。

【注16】ハーパー・アンド・ブラザーズが発行するハイファッション誌。1867年にアメリカで創刊。女性誌として最も長い歴史をもつ。

【注17】1976年生まれのラッパー。マイアミ出身。かつて刑務所の看守を務めたこともあるが、2006年にデフ・ジャム・レコード傘下のレーベルと契約し、コカインの国際的ネットワークの構築を歌ったシングル「ハスリン」がヒット。09年にマイバッハ・ミュージック・グループなるレーベルを創設。過去に、ギャングに脅迫されたり、誘拐・暴行の容疑で逮捕されたりしたことも。

【注18】1961年にイヴ・サン=ローランにより創立された世界的ハイファッション・ブランド、イヴ・サンローランが、12年に改名してサンローラン・パリに。同時に、エディ・スリマンがデザイナーとして復帰した。

【注19】1968年生まれのファッション・デザイナー。フランス出身。97年にイヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ・オム、2000年にディオール・オムのディレクターに就任。07年にディオールを退任、12年にサンローランへ復帰。

【注20】1969年生まれ、2010年に他界したファッション・デザイナー。イギリス出身。92年にアレキサンダー・マックイーンを創立、96~01年、ジバンシィのデザイナーを務めた。

【注21】世界的ビッグメゾン、クリスチャン・ディオールのメンズライン。1957年創設時のイヴ・サンローラン以降、ジャンフランコ・フェレ、ジョン・ガリアーノ、エディ・スリマン、ラフ・シモンズらがデザイナーを歴任。
【注22】ディーン・ケイティンとダン・ケイティンの双子が手がけるブランド。1994年にメンズ・コレクションを発表後、同年にレディースラインもスタート。イタリアのテーラードとアメリカのストリート・テイストを融合したデザインが人気。

【注23】フランコ・モスキーノが1983年に創立したイタリアのファッション・ブランド。2013年、ジェレミー・スコットがディレクターに起用され、ヒップホップやアニメなどストリート・カルチャーをミックスし、野性味あふれるデザインに変貌。

【注24】高田賢三が設立したファッション・ブランド。2011年、オープニングセレモニーの創業者ウンベルト・レオンとキャロル・リムがディレクターに就任、ストリート・テイストが強いデザインに。15S/Sではスケートプラザを模した会場でショーが行われた。

【注25】1987年生まれのラッパー。カリフォルニア州コンプトン出身。15年の新譜『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』は、ディアンジェロの『ブラック・メサイア』と並んで今後のブラック・ミュージックを左右する決定盤、と菊地さん談。

【注26】1978年生まれのジャズ・ピアニスト。ヒューストン出身。12年、『Black Radio』でグラミー賞最優秀R&Bアルバム賞受賞。

【注27】アメリカ最大のアパレル企業にして、世界的ファストファッション・ブランドの先駆け。1969年にサンフランシスコでドナルド・フィッシャーとドリス・フィッシャーによって創設。ティーン世代をターゲットにして急成長した。

【注28】EXILEや三代目J Soul Brothers、E-girlsなどの所属事務所。LDHapparelがアパレルブランド「24karats」(正式名称はGOLD 24karats Diggers)を運営。2004年にメンバーのMATSUがディレクターを務める「BOIS BOIS」が設立、07年に「GOLD 24karats Diggers」に改名。

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