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町田康の「続・関東戎夷焼煮袋」第7回

物事はダマになり易い ダマという人生の障害といかにして向き合うか

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――上京して数十年、すっかり大阪人としての魂から乖離してしまった町田康が、大阪のソウルフードと向き合い、魂の回復を図る!

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photo Machida Ko

 大坂の魂を回復するのかなんか知らんが、その後、心のどぶ、を浄化して澄み渡った境地に至ろうとするのかなんか知らんが、SM(スーパー・マーケット)に参ってお好み焼きミックスや鰹節の粉などを購入し、それらの入ったへなへな袋をぶら下げ、背中を丸めて歩いている老人というのは、実に悲しく滑稽な存在なのではないだろうか。

 ふと頭をよぎったそんな考えを打ち消すために、ことさら明るく、口笛なンどを吹いて歩いたが、そのメロディーたるやもの悲しいことこのうえなく、ようやっと陋居陋屋にたどり着いたときには私は、うちのめされた人のように成り果てていた。

 死のうかな。

 一瞬。ほんの一瞬だけ、そんな考えが浮かんで、慌ててこれを打ち消した。

 大坂の人間はそんなことを考えない。どこまでいっても陽気浮気、泣く間があったら笑わんかい、って感じでゲラゲラ豪快に生きるのであり、よし死ぬにしても関東戎夷のように、半泣きで、「ああ、もう死ぬかない」言うなどして追い詰まって死ぬのではなく、ごくあっさりと、「ほな、ちょろ死んでこましたろか。あの世見物、ちゅうやっちゃね」などと、明るく楽しく勢いよく死ぬ。

 話を戻せば、豚肉など入ってずっしり重い、上半分からネギが顔を覗かせるなどして不細工で到底、女の子に持てそうにないへなへな袋をぶら下げてとぼとぼ歩く自分を、悲しいことであるよなあ、なんて芸のない、まるで私小説文学のようなとらえ方をするのではなく、

 ぎゃははは。ええおっさんがアカの宵からネギぶら下げて歩いとんが。ぶさいくなやっちゃで。大笑いや。

 とあくまでも笑い、それも嘲笑ではなく哄笑の側に持っていく。

 つまり悲しみのボールを抱え嘲笑のゴールに突入しようとする敵から、悲しみのボールを奪い、笑いの哄笑のゴールに突進して得点を挙げる。

 そんなゲームのプレイヤーこそが大坂の魂なのである。

 しかし、それをこのようにして文章化している。概念化している時点でそれは悲しみのゴールに向かう文学的営為なのでそんなことをやっているようではいつまで経っても関東戎夷である。

 そんなことをなにも考えずに、放屁やそれが無理ならせめて時候の挨拶程度の意識でできるように自己の魂を鍛え直さなければならない。

 それは実に困難なことだ。鍛えるということは厳しいことで、抑制的な行為である。ところがこの場合、そのことによって解放された魂を得なければならない。

 つまり抑制によって解放されるということでこんな難しいことはなく、そうした難しいことをやっていること自体が大坂の魂ではないという循環に陥るという苦しみもある。

 しかし、いったん関東戎夷になってしまった以上、この苦しみを経ずに大坂の魂を回復することはできない。

 苦しみの先にしか救いはない。これは純粋の大坂の魂にはけっしてわからぬ苦しみだ。

 しかし、運命を呪うのはやめよう。純粋の魂を羨むのはやめよう。

 苦しみの先にある魂は純粋の大坂の魂よりもさらに大坂の魂であると信じよう。

 そして吹けないアルトを吹き鳴らそう。そして、じゃかまっしゃい、と近所のおばはんに文句を言われよう。あははははははは。あほほほほ。

 そのためにいまやることは。そう。ただひたすらに、ただ一直線に、お好み焼きを焼くことのみである。理屈をこねている時間はない。

 さあ、焼こう。抑制的にへらへら笑いながら。私は。お好み焼きを焼こう。この瞬間も多くの同年代が銭を儲けまくっている。私はお好み焼きを焼く。それが私の選択した大笑いの人生である。なにもかもが出来損なっているように見えながら、それらがどろどろに溶けた小麦粉のような、人間の本質にまみれることによって、やがてひとつのおいしい塊となる。

 人事のこと。予算のこと。人間関係のこと。家庭のこと。教育のこと。すべてやり損なって、やり直しがきかない。これからの一生はそれらのやり損ないの後始末で終わる。

 というか死ぬまでに後始末は終わらないだろう。

 ということはどういうことになるのか。死んで名誉を残すのではなく、負債を残す、ということである。ではその負債をどうやって払うのか。これをどうやって払うのかを言わなければ死ぬことすら許されない。

 これをどうやって払うのか。

 死後、笑いものとなることによって払うのである。もちろん、生きているときも、いないときに嘲笑されるという形で利息だけは払っている。

 そんな関東戎夷のやり損ないの人生が、そのやり損ないを惹起した人間の本質にまみれ、焼かれることによって逆転・反転する。すなわち、大坂の庶民の魂へと飛翔・脱出、いわばエクソダスを遂げることによって、銭を儲けて成功している奴らよりも楽しい感じになれるのである。

 あはははは。あほほほほ。また、吹けないアルトが頭のなかで鳴り響く。私は狂っているのか。狂ってしまっているのか。あははははは。あほほほほほほ。もちろん狂っている。しかし、この狂気の渦潮によってのみ人生の洗濯、大洗い、が可能になるのである。

 そして、私はいま渦潮と言った。

 渦とは一種の回転運動であるが、お好み焼きにおいてはまずこれが重要になってくる。なぜなら、先ほどから私は、お好み焼きを焼く。お好み焼きを焼こう。などと言っているが、ご案内の通り、人間はいきなりお好み焼きを焼くことはできない。できないできないできない。お好み焼きを焼こうと思ったらまず、粉を水に溶かさなければならない。つまり、火を用いる前に水を用いなければならぬのであるが、この際、最も注意を払わなければならないのは、玉にならないようにする、という点である。

 これは、タマ、と読まずに、ぜひとも、ダマ、と読んでいただきたいが、さて玉とはどんなものであろうか。また、玉になるとはどういうことであろうか。それは一言で言うと、溶け残り。溶け残りを作る、ということで、粉末状のものを水に溶かす場合、手早く素早く根気よく一定の速度と力加減で最適な温度湿度の下でこれを行わぬ限り、一部のみが溶け、一部は溶け残るが、その際、その溶け残りは、丸い塊となって溶液のところどころに現れ、これを業界では玉と呼んでいるのである。

 これは見た目にも随分と不愉快で見苦しいものであるが、料理の場合、仕上がりにも悪影響を及ぼす。なんとなれば、玉はその表面こそ水分を含んでなめらかではあるが、その内奥は生粉であり、生粉は加熱調味したところで只管不味であるからである。

 私はいま料理の場合、と言ったが料理以外の部分にも玉は現出する。

 例えば文章を綴って文学やなんかを拵えようとする場合も、手つきやその他が疎略で玉になることがある。

 この場合は、作者の思想や感情が粉、文章そのものが水、である。

 よき文学の場合、そうした粉である作者の思想や感情が水である文章そのものになめらかに溶け込んで玉になっておらない。だからこそ読者は、文章そのものに酔い、文章そのものを楽しんでいるだけなのに、自然と、畏く尊いものを垣間見たような気持ちになって粛然としたり、なんとも言えぬ複雑で精妙な感情に浸るなどする。

 ところがこれが玉になっておれば……それは言わぬが花でしょう。読者は生硬な理窟やひとりよがりな感情に鼻白むばかりなのである。

 それはその他のいろんなことにも言えて、なんでそんなことが言ってあるかというと、つまりそれくらいに物事は玉になり易い、ということである。

 というか大抵の場合は玉になり、玉にならない方が珍しいくらいなのである。

 例えばよい例が私自身で、この年まで何度粉を水に溶かしてきたかわからないが、玉にならずになめらかに溶かすことができたことなど殆どない。

 というと嘘になる。私は嘘が嫌いなので恥を忍んで正直に告白すれば、これまで粉を水に溶かして玉にならなかったことは一度たりともない。毎度毎度、玉を作ってきた。失敗をしてきたのである。

 なので料理番組などで粉を水に溶かしながら先生が、「このとき玉にならぬように注意して……」と言っているのを聞く度に腹を立てた。おまえはそんな風に、玉にならぬように注意して、などと簡単に言うが、それについちゃあこちとらどえらい苦労をしてきたんだ。注意してもしても玉になるんだ。俺の半分も生きていないような若造が聞いたようなことを吐かすな。そんな悪態もついた。

 そしていま、どうせここにもそんな風なことが書いてあるのだろう、と思ってお好み焼きミックスの袋に印刷された作り方の解説書きを見ると、ははは、案の定、step1生地をつくる、というところに、ダマがなくなるまでよく混ぜる。と書いてあり、これを読んだ私はこの解説書きの文体と思想を心の底から軽侮した。

 というかこんな解説を読むこと自体が大坂の魂を恢復せんと志す者にとって致命的な誤りで、こんなものはそもそもが初心の関東戎夷に向けた、わかりやすさを旨とした、がために錯誤を厭わぬ欺瞞と頽廃に充ち満ちた腐敗文書だ。

 そう考えて私は直ちに目を背けたのであるが、その際、図解の横に添えられたワンポイントアドバイスのごとき文言がチラと目に入った。曰く、このとき水を少しずつ入れるとダマになりません云々。

 それを見た私はアホらしさのあまり思わず笑ってしまった。

 そんな簡単なことで玉にならないのであれば私の半世紀にわたる労苦はいったいなんだったのか。馬鹿馬鹿しすぎて話にならない。

 そう思いつつ、けれどもまあやってみようか。と思ったのは世の中にそんな馬鹿なことはない、ということを証明したかったからである。

 私は水を少しずつ入れて攪拌した。なめんなよ、ぼけ。そう思いつつ。したところ、おかしげなことが起こった。

 粉が玉にならなかったのだ。

 えええええええええっ。という叫び声すら上げられなかった。

 私は混乱していた。

 五十年にわたって私を苦しめてきた玉とはいったいなんだったのか。いや、違う、その玉に苦しめられてきた私とはいったいなんだったのか。いや、違う。え? どっちどっちどっち? どっちの問題なの? と思いつつ、同時に、いや、もっと別の問題なんじゃないの。とも思っていた。

 思いつつ攪拌するうちに玉がひとつもないなめらかな生地ができあがった。

 そのことを喜んだらよいのか。悲しんだらよいのか。私はもはやそれすらわからなかった。

町田康(まちだ・こう)
1962年、大阪府生まれ。作家、歌手。81年に町田町蔵として『メシ喰うな!』でレコードデビュー。著書に『くっすん大黒』(文藝春秋/ドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞)『きれぎれ』(文藝春秋/芥川賞)『告白』(中央公論新社/谷崎潤一郎賞)『宿屋めぐり』(講談社/野間文芸賞)など。近著には『バイ貝』(双葉社)など。

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