サイゾーpremium  > 特集2  > タブーを破るゲージュツとは何か? 取扱注...

──そもそも芸術におけるタブーとは何なのか? その答えを探るべく、現代美術からダンス・パフォーマンス、さらには作者不詳の「イタズラ」まで俎上に載せながら、伊藤亜紗、楠見清、桜井圭介という近年のアート事情に精通する論者に鼎談してもらった。(本編はプレミアサイゾー限定のロングバージョンでお届けします)

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楠見 今回のお題だと、まずはChim↑Pom[1]の『ヒロシマの空をピカッとさせる』(以下、『ピカッ』)のことから話すべきですよね。あの騒動のときにネット上のモラリスト的なネチズンから攻撃されるとともに、『中国新聞』からも批判されました。要はネットとマスという新旧メディアを同時に敵に回したわけで、世の中から現代美術が吊るし上げられるという状況すら作り出したわけです。

桜井 もちろん原爆は大きなトピックですが、彼らの姿勢はそれまでの作品と変わらないんですよ。最初の個展『スーパー☆ラット』(2006年)[1a]では殺鼠剤への耐性を持つ渋谷センター街のネズミをピカチュウの剥製にし、動物愛護に熱心な人たちの反感を買ったように、モラルとされるものに抵触してきた人たちなので、『ピカッ』もワン・オブ・ゼムだと理解しています。ただ、あの反響は予想外で、今の世の中の気分は彼らみたいな行動に逆撫でられてしまうんだなと。今は昔と比べて一見タブーなんてなくなったように見えて、その実至る所に見えない地雷がある。それをうっかり踏んじゃったのが『ピカッ』の騒動であり、草彅剛の事件ではないか。「なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか?」と「なぜ深夜の公園で裸になってはいけないのか?」は通底する問いかけだと思うんです。

伊藤 『ピカッ』に対しては、被爆者団体を中心とする「心情的に不快だったから抗議した」というベタな反応と、ネットの匿名掲示板を中心とする「自分が不快だったわけではないけどタブーだからタブーと言いたてる」というメタな反応が同時進行したのが興味深かった。ただ、常に何らかのタブーに触れてきた彼らの究極は、『ともだち』(07年)[1b]でしょう。富士の樹海で自殺者が首を吊ったときに使われた樹木やそこに残された遺品を展示していて、社会的タブーを超えた絶対的タブーを犯したと感じました。霊的領域に土足で入ったようなものなので。

楠見 Chim↑Pomは世の中にある見えないタブーを発見し美術作品として提示する。政治的イデオロギーというよりはイタズラ的なセンスで、潜在するタブーを露見させるという意味ではデュシャンの便器の血を継いでいる。またイタズラといえばMITのハック[2]。誰の仕業なのか、学内のシンボル的建物の屋根に車を乗せるような悪ノリです。京都大学の折田先生像[3]もその類いで、毎年入試時にアニメのキャラクターの張りぼてが作られるけど誰の犯行かは不明。これらは作者がアノニマスであることで逆にパブリックなアートとして共感を集めているのが面白い。

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伊藤 匿名的なものとしては、イラスト共有サイトpixiv[4]も興味深いです。同サイトのアカウント取得画面には「R-18G」というチェックボックスがあり、それを選択するとグロテスクでショッキングなイラストが表示されます。内蔵が飛び出した少女や目がたくさんあるフリークスといったもので、それらは「グロ絵」というジャンルとして完全に成立している。その結果、グロいものを愛好するというタブーを犯すことがいわば求心力として機能し、趣味の共同体が形成されていくようなシステムになっている。ただ、それはいわゆる美術界外のタブーをめぐる表現で、美術界内における最大のタブーはヒロ・ヤマガタ[5]ではないかと。80年代は画家ではなくイラストレーターになることをカッコいいとする風潮があったわけですが、そんななか一番儲けていたのはあきらかに彼で、でも「あんなにダサイもの」をみんな美術として受け入れようとしなかった。この「ヒロ・ヤマガタ問題」については中ザワヒデキさんが論じています。

楠見 ああいう版画を居間に飾るのは昔からあるので、目くじらを立てる対象でもない。むしろ美術館にある横尾忠則[6]の方が触れにくい存在かも。

桜井 スゴいけど、ヘタだから(笑)。でも美術界でそんなことは言えない。

楠見 唐突な画家宣言によって美術史の文脈を無効化したあの超人性はアウトサイダー・アート[7]以上ですからね。実は岡本太郎[8]も大阪万博以後、美術界から干されていた。近年の太郎ブームはむしろその反動の結果なんです。だからヒロ・ヤマガタ自体はそんなにタブーとはいえない……。

伊藤 でも民主主義の基準でいったら人気のある彼らの方が勝利者なわけで、美術界の人たちが黙殺しているものが、世間的には美術の中心にあることになってしまうのです。

隠された禁忌を照射する非アート的表現の強度

桜井 パフォーマンス系では本気で殴り合うcontact Gonzo[9]というグループがいます。ダンスにはコンタクト・インプロヴィゼーションという、身体を触れ合わせて、押したり引いたりすることで動きを作っていく手法があって、そういう"優しい"身体コミュニケーションを不正改造しちゃてる(笑)。単なるどつき合いをパフォーマンスとして成立させていて、それはダンスとしては画期的なことでしょう。ただ、彼らを格闘技ファンや世間一般が見てどう思うのか……。

楠見 そのときに「なぜこれがアートなの?」という疑問符で終わってしまう気もします。『ピカッ』への世間の反応も実はそれだったんじゃないかな。

桜井 「アートだって言えば何でも許されると思うなよ」ということでしょうね。

後編へ続く

【注釈】
[1]Chim↑Pom(チン↑ポム)
卯城竜太、林靖高、稲岡求、水野俊紀、岡田将孝、エリィが2005年に結成したアーティスト集団。「生と死」をテーマに社会の暗部をあぶり出してきた。編著に『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』(河出書房新社)。

[2]MITのハック
マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology)のキャンパスで行われる犯人不明のイタズラ。例えば、学内のシンボル的建物Great Domeの屋根にパトカー(の偽物)を乗せるなど。

[3]京都大学の折田先生の像
京都大学の前身校の初代校長だった折田彦市の業績を讃えるためキャンパスに設置された銅像は、何者かによる落書きのメディアとなってきた。97年に銅像は撤去されたが、今もパロディという形でイタズラは継承されている。

[4]pixiv(ピクシブ)
プロ・アマ問わず自作のイラストを投稿でき、その閲覧を楽しむイラストコミュニケーションサービス。ユーザーは「タグ」をつけられピンポイントで興味のあるイラストに辿り着けるのが、ほかのイラスト共有サイトと異なる特徴。

[5]ヒロ・ヤマガタ
アメリカ在住のアーティスト。80年代にカラフルなイラストで名を馳せ、今もそうした作品が日本では代名詞となっているが、現在のホームページを見るとその面影はなく、レーザーを使う美術家としての顔を打ち出している。

[6]横尾忠則
60〜70年代は演劇ポスター、雑誌のイラスト、アルバム・ジャケットなどを手がけたグラフィック・デザイナーだったが、80年に画家宣言し、以後は美術家として活動。

[7]アウトサイダー・アート
知的障害者や精神病患者が描いた絵画を指す言葉として用いられることが多いが、正確には既成の芸術スタイルや流行に依拠するのではない自然発生的な表現のこと。
邪道だと言われがちだがある意味ホンモノ。

[8]岡本太郎
『太陽の塔』(70年)があまりにも有名な美術家。抽象芸術、シュルレアリスム、パリ、民族学、沖縄文化......等々の「タグ」を抜きにして語れないが、そのキャラクターがお茶の間に浸透し人気を獲得した。

[9]contact Gonzo(コンタクト・ゴンゾー)
2006年に大阪の扇町公園にて、「痛みの哲学 接触の技法」を謳うおごそかな「殴り合い」を開発したパフォーマンス集団。ラフォーレミュージアム原宿での「HARAJUKU PERFORMANCE+2009」(12/22・23)に出演する。

【写真クレジット】
[1a]Chim↑Pom『SUPER RAT』2006 (C)2006 Chim↑Pom courtesy : Mujin-to Production, Tokyo [1b]Chim↑Pom『ともだち』(「オーマイゴッド」展会場風景より)2007 photo : Koji Tada (C)2007 Chim↑Pom courtesy : Mujin-to Production, Tokyo [2]MITのハック (C)François Proulx [3]京都大学の折田先生の銅像 [4]pixivの「グロ絵」 [5]ヒロ・ヤマガタ『自由の女神』1986 [9]contact Gonzo 


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