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丸屋九兵衛の「バンギン・ホモ・サピエンス」【22】

【Olivia Newton-John】英豪米全制覇の歌姫

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――人類とは旅する動物である――あの著名人を生み出したファミリーツリーの紆余曲折、ホモ・サピエンスのクレイジージャーニーを追う!

オリヴィア・ニュートン=ジョン

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(絵/濱口健)

スタジオアルバムは26枚、ライブ盤は6作、ベスト盤などは計14作、シングルは70枚。オリヴィアのディスコグラフィを年代順に追う上でややこしいのは、70年代後半から80年代前半に重要なサントラが3枚あることだ。

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この原稿はアベちゃんの国葬がデンデンされる9月下旬に書いているが、今回の主役は8月にstate funeralをもって葬られている。もっとも、その主体はState of Victoria、つまりオーストラリアのヴィクトリア州だが。さらに、彼女がオーストラリア国民となったのは1981年、アメリカ在住時のことだから、話が複雑だ……。


オリヴィア・ニュートン・ジョンといえば、「アメリカでも成功したオーストラリアの歌姫」。しかし、生まれたのは1948年、イングランドのケンブリッジだ。父はウェールズ生まれ、情報部勤務のドイツ語専門家だったから『裏切りのサーカス』の世界である。母方はナチス政権を逃れてUKに渡った半分ユダヤ系、半分プロテスタントのドイツ人一族。母の父はノーベル賞を獲ったユダヤ系の物理学者マックス・ボルン、母の母の系譜をさかのぼると宗教革命のマルティン・ルターに辿り着くというから、世界史を凝縮したようなオリヴィアなのだ。

5歳のときに家族と共にメルボルンに移住。10代の頃は獣医志望だったが科学に自信がなく断念。すでに才能の片鱗を見せていた音楽に専念しようとするも、16歳のときに高校の演劇で演技力を見出され、それで有名に……これはドレイクのパターンか? とにかく、豪テレビ業界でなじみの顔となったオリヴィアは65年に歌番組で優勝。その優勝特典がUK旅行だというから、豪の番組のセンスはよくわからない。

こうしてUKに戻ったオリヴィアは、シャーリー・バッシーに影響されながら66年に初シングルをリリース。これは当たらなかったし、70年にはドン・カーシュナー(モンキーズをプロデュース)企画のSFミュージカル映画『Toomorrow』で主演&同名グループでアルバム・デビューするも失敗に終わる。翌71年に初のソロアルバム『If Not for You』を発表。拠点はUKなのに豪リリース、だがボブ・ディランをカバーしたタイトル曲はUSで25位まで上昇。続くシングル「Banks of the Ohio」はUKと豪でトップ10入り……と国境超越者らしい混乱ぶりを見せた。なお、70年代の彼女のアルバムは豪/UK/北米で曲目やタイトルが食い違う。

73年の「Let Me Be There」はアメリカでトップ10入りする大ヒットとなり、同名のアルバムもカントリー・チャートの年間2位を記録。こうしてグラミーのカントリー部門で受賞までしたオリヴィアに対し、カントリー原理主義者たちが「アメリカンじゃないくせに!」と抗議運動を展開する騒ぎもあった。UK代表として出場しABBAに破れた74年のユーロヴィジョン・ソング・コンテスト直後に北米リリースしたのがアルバム『If You Love Me, Let Me Know』だ。同時期のUK盤『Long Live Love』の曲目を変更、「Let Me Be There」路線を強化するためカントリー曲を多めにしたもの。目論見通りタイトル曲はカントリー・チャートで2位まで上昇する。しかし、アメリカ移住を敢行する75年にリリースした『Have You Never Been Mellow』はタイトル通りメロウで、カントリー感はかなり控えめとなり、我が国でもオリコン26位を記録。カントリー歌姫として出世したシンガーが、カントリー色を抑えて国際的人気を獲得……つまりオリヴィアは、いわば「元祖テイラー・スウィフト」だったのだ。ここからは、むしろアダルト・コンテンポラリー/AOR路線が主軸となる。

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