――すべてのビール党に捧ぐ、読むほどに酩酊する個性豊かな紳士録。
黎明期からクラフトビールに携わってきた横須賀貞夫さん。栃木マイクロブルワリーのほか、宇都宮市内でブルーパブ「BLUE MAGIC」の経営も手がけている。
各地のブルワーを訪ねてまわる際、「どちらで修業されたんですか?」というのがお決まりの質問のひとつになっている。そこで高い確率で名が挙がるのが、今回ご紹介する栃木マイクロブルワリーである。
宇都宮市内の同ブルワリーでは、自社のビールを造って売るかたわら、新規開業を目指す人の研修を積極的に受け入れており、ここ5年間で30人以上のブルワーが巣立っている。
「研修希望の方には、原料の仕入れから最後の出荷までの全工程をここでレクチャーしています。宇都宮に仮住まいして短期集中で通う人もいれば、数カ月かけて来られる時だけ来る人もいます。修了期間も特に決めていないので、それぞれの都合に合わせて、納得のいくまでビール造りのノウハウを学んでもらえれば」
そう語るのは、栃木マイクロブルワリーの代表・横須賀貞夫さんだ。国産クラフトビールの黎明期からブルワーとして活躍してきた横須賀さんは、今やレジェンド的存在。いわばブルワーを育てるブルワーとして名高いが、こうして後進の育成に熱心なのは、あくまで「自分自身のため」だという。
「ブルワー育成を通して業界の裾野を広げることは、クラフトビール市場全体の活性化につながります。それは結局、僕自身がこの世界で生きていくために必要なことですからね」
そんな横須賀さんがブルワーを目指したのは、今から20年以上も前のこと。前職はCDショップの経営者だったという。
「家業を継ぐ形で始めた商売でしたが、薄利多売のビジネスにどうしても面白みが感じられず、何かものづくりに携われないかとずっと考えていたんです。しかし、工業製品は莫大な設備投資が必要ですし、農業をやるには土地がいる。そんな時、規制緩和で日本でも地ビールの製造が可能になったことを知り、これはいいかもしれないと目を付けたんです」
折しも、全国各地で地ビールメーカーが次々に立ち上がり始めた頃である。横須賀さんはすぐに栃木県内の情報を収集し、那須高原ビール株式会社の設立計画を知る。縁もゆかりもなかったが、経営者に電話で直接アタックし、首尾よく転職を実現させた。
そして入社後はまず、新潟県のエチゴビールで研修を重ね、ビール造りのノウハウを一通り身につけた。これが1996年のことだ。
横須賀さんは那須高原ビールで3年ほど経験を積んだ後、今度は日光ビール株式会社の立ち上げに参加。そこで7年勤めた後、2008年に独立して栃木マイクロブルワリーを創業した。
しかし、この頃はすでにブームは去り、一時は300社を超えた地ビールメーカーのうち、100社以上が倒産する低迷期。そんな逆風の中での独立は、さぞ困難を極めたものと想像するが……。
「それが、そうでもないんですよ。酒販店や飲食店の方々と積極的に交流していたおかげで、独立後の取引先が一定数確保できていましたから。ただし、大規模にやるのではなく、手堅く小規模生産を維持することを心掛けていました」
具体的には、300リットルの醸造タンクを複数抱えるマイクロブルワリーが珍しくない中で、栃木マイクロブルワリーは50リットルタンクでの製造にこだわった。小規模多品種の生産体制で、取り引きする酒販店それぞれのオリジナルビールを造ろうというのが、横須賀さんの戦略だったからだ。
いわゆるOEM生産をメインにしたわけだが、街の酒屋としても自社のオリジナルビールとなれば、積極的に売ってくれるもの。このアイデアが奏功し、クラフトビールが下火な時期でも堅実に商売することができたという。
そして今、クラフトビール市場は再び息を吹き返している。
「一応、カウンターとテーブル席を設けているものの、当初は醸造所に徹するつもりでしたから、ここへ飲みに来るお客さんはほとんどいないだろうと思っていました。それが昨今のブームで、遠方から足を運んでくれる人も増えてきて、僕にとってお客さんとじかに接するいい場所になっています」
こうして造り手と消費者の距離が近いことこそが、クラフトビールの一番の醍醐味であると横須賀さんは語る。
確かに、造り手の思いに耳を傾けながら味わうビールは絶品。そんなブルーパブの楽しみが根付いたのも、横須賀さんを始めとする業界拡大に尽力した人々のおかげなのだ。
友清哲(ともきよ・さとし)
旅・酒・洞窟をこよなく愛するフリーライター。主な著書に『日本クラフトビール紀行』(イースト新書Q)、『一度は行きたい「戦争遺跡」』(PHP文庫)ほか。