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哲学者・萱野稔人の"超"哲学入門 第19回

国家は合法的な暴力そのものを独占しているのではなく、法的判断を独占している

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(写真/永峰拓也)

『暴力批判論 他十篇 ―ベンヤミンの仕事1―』

ヴァルター・ベンヤミン(野村修・編訳)/岩波文庫/760円+税
20世紀ドイツを代表する思想家・批評家のひとり、ベンヤミンの論文集。法と暴力の関係、倫理性を問う「暴力批判論」のほか、「翻訳者の課題」「認識批判的序説」「一方通交路」「ベルリンの幼年時代」など10編を収録。

『暴力批判論 他十篇― ベンヤミンの仕事1―』より引用
すなわち、個人と対立して暴力を独占しようとする法のインタレストは、法の目的をまもろうとする意図からではなく、むしろ、法そのものをまもろうとする意図から説明されるのだ。法の手中にはない暴力は、それが追求するかもしれぬ目的によってではなく、それが法の枠外に存在すること自体によって、いつでも法をおびやかす。

 前回は、どのような理由で合法な暴力と違法な暴力が区別されるのか、という問題を考えてきました。

 たとえば死刑は、他人を強制的に死に追いやるという点では殺人の一つですが、日本では合法とされています。これに対し、逮捕されれば死刑は避けられないほど凶悪な犯罪をおこなった人間を、その被害者遺族が先につかまえて殺してしまった場合、その殺人は非合法な暴力として刑罰の対象になってしまいます。どちらも凶悪犯を罰するという点では同じなのに、一方は合法とされ、他方は違法とされてしまうんですね。いいかえるなら、死刑が合法とされて私刑(リンチ)が違法とされるのは、正しい目的のための暴力かどうか、という点とは関係がないということです。どちらも「凶悪犯を罰する」という目的では変わりありませんから。では、どのような理由で両者は区別されるのか、というのが前回までの問いでした。

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