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友達リクエストの時代【第25回】

最終回「友だちなんかいない」

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SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。

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『ほとんど人力』(小学館)

 はじめにお知らせをひとつ。

 当連載が書籍化されることになった。

 タイトルは「友だちなんかいない」。発行は太田出版で、発売時期はたぶん2月頃になる。乞うご期待。

 連載を開始した当初、私は「友だち」というテーマを転がすだけで一冊の本を作ることに対して、懐疑的な気持ちを抱いていた。たしかに、「友だち」は、大きなテーマだし、21世紀の日本を動かしている主要な原理のひとつでもある。とはいえ、特段の取材もせずに、自分の体験とアタマの中の考えだけで「友だち」について書き続けていれば、いずれ限界はやってくるはずだ、と、そう思っていた。なんというのか、ありていに言って、私は、このテーマに自信が持てなかったのである。

 ところが、書き始めてみると、「友だち」の周辺には、いくらでもエピソードが転がっている。

 というのも、「友だち」は、通常の意味でいう、「同性の仲の良い知人」という立場にとどまる存在ではなかったからだ。実際のところ、それは、ブラック企業の経営理念そのものであり、別の場面では愛国心の代用品としてネトウヨをドライブしていたりする。

 そうなのである。「友だち」は、実物の人間である以前に、そうあってほしいと我々が考える「思想」であり、そうであらねばならぬと現代の日本人が信奉している「信仰」なのだ。その意味で、「友だち」は、「友情原理主義」という思想の顕現そのものだ。

 この話のむずかしいところは、友情原理主義の実態が、そのど真ん中で生まれ育った人間には観察できない点にある。どういうことなのかというと、おおまかに言って、30歳より年齢が下の人間は、そもそも友情原理主義が支配していない世界で暮らした経験を持っていないということだ。

 彼らは、「友だちが一番大切」

「友情は一生続くものだ」

「友だちのいない人生はこの世の闇だ」

 といったいくつかのタームを、万古不変の真理であり世界共通の人間性の根本原理なのである、と、ごく自然にそう考えて暮らしている。

 が、若者よ。そんなことはないのだぞ。

 例えばの話、私どもバブル期以前の若者たちにとって、「友だち」は、全面的に不可欠な存在ではなかった。彼ら(というか、「我々」だが)はどちらかといえば、「恋人」を作ることのほうにより熱心だった。

 それゆえ、私の世代の若者たちは、女(つまり恋人のことだが)ができると、すぐさま友だちと疎遠になったものだった。

「あいつも、毎度毎度女ができると電話出なくなるから、そういうとこはっきりしてるよな(笑)」

 と、その現金さと手のひらの返しっぷりが、仲間内でサカナにされることはあっても、彼女持ちの男が男の付き合いをないがしろにする傾向に対して、我々の世代の男たち(特にバブル期の恋愛至上主義の連中)は、おおむね寛大だった。なぜなら、自分たち自身が、そういう振る舞い方をしていたし、若さとは、つまるところ、そういうものだと思い込んでもいたからだ。

 ところが、この話(恋人ができると、友だちとは会わなくなる、というお話)を若い人たちにすると、かなりあからさまに驚かれる。

「ホントですか?」

「ホントだよ」

「そういうヤツって最悪じゃないですか?」

「まあ、最高じゃないけど、そういうものじゃないか」

「オレは、友だちの方を優先します」

「それ、強がりで言ってるんじゃなくて?」

「本気ですよ」

 なるほど。この人たちは、「草食化」しているのではない。むしろ「友情幻想」に囚われている。私の目にはそう見える。

 友だちは、大切なものだ。

 しかし、若者よ、順序を間違えてはいけない。

 友だちが大切だという言葉の真意は、個々の友だちが、その時々で、大切だったりそうでなかったりするということについての暫定的な言明に過ぎない。

 ある場面では、ある友だちが大切になるし、別の場面では別の友だちが大切になる。もっと別の場面では、友だちという存在そのものがまるごと大切でなくなるケースもある。つまり、原理や道徳として「友だち」が、絶対の価値として屹立しているのではなくて、あくまでも、その時々の要不要に沿って、友だちが役に立ったり慰めになったり、ひまつぶしの相手になるということに過ぎないわけだ。

 何を言っているのかわからないかもしれない。

 私が言っているのは、「友情は一生」だったりしないということだ。

 これは、あたりまえの話だ。というよりも、50歳を過ぎれば、誰にでもわかることなのだ。

 一生続く友情がないとは言わない。

 が、それは、一生涯続く恋愛と同じく、全体から見ればレアケースだし、一生付き合う友人同士の間に一生涯の友情が介在しているケースも、一生連れ添う夫婦が一生涯お互いに恋に落ちているのと同程度の確率で考えなければならない。

 つまり、多くの場合、ごく一般的かつ典型的なケースにおいて、友情は、環境や、両者の生活レベルや、住んでいる場所の距離や、健康状態や精神状態によって、随時、切れたりつながったりするものなのだ。

 また、そういうふうに「都合次第で切れたりつながったりする」からこそ、友だちは我々にとって、ありがたいものでもある。

 古来、物語の中で描かれる「友情」は、「友のために死ぬことを辞さない」人間の情愛として美化されているわけだが、これは、逆方向から読み取れば、「友だちとは、その対偶に死を要求する存在だ」ということになる。まるでヤクザだ。

 つい先日、高倉健と菅原文太という2人の俳優が相次いで亡くなった。この2人が代表していた映画を比べてみると、面白いことに気づく。

 まず、高倉健が主に60年代までに主演した古いタイプの任侠映画は、男の義理と挺身という美学をそのプロットの芯にしていた。一方、菅原文太が70年代以降に主演した実録ヤクザ映画は、義よりも不義を、忠よりも不忠を、仁よりも不仁を描くことでリアリズムを表現していた。すなわち、建前よりは本音、集団主義よりは利己主義、任侠よりは暴力という、戦後的な諸価値を謳歌していたわけだ。

 両者を見比べてみると、任侠映画の主人公が「仁義」「筋目」といった戦前的な徳目に殉じていたのに対して、戦後の個人主義を標榜する実録モノのヤクザは、平然と「仁義」を踏みにじるリアルな人間として描写されている。

 ただ、注目せねばならないのは、実録ヤクザ映画でも、最後の最後に「友情」だけは、毀損してはならないたったひとつの宝物として扱われていることだ。

 このことは、戦後世代の観客にとって「仁義」や「義理」がともすると共感できない徳目と受けとめられていたのに対して、「友情」だけは、依然としてリアルな倫理として共有されていたことを物語っている。

 かくして、友情は、あらゆる組織に利用される。

 震災以来横行している「絆」についても、それににつながることで、人々が安心感を得ようとしているだけだと思ってはいけない。そんなに甘い話ではない。

 絆に頼る人間は、いつしか絆に縛られるようになる。

 絆で人々を誘引する組織は、その裏で、絆による束縛と絆を利用した支配をたくらんでいる。

 文科省の背後で道徳教育を推進しようとしている人々も、同じ理由で「友情」を持ち出してきている。

 彼らは、戦前の国家主義者のように、「忠君愛国」や「滅私奉公」をナマのカタチで要求するような不器用な真似はしない。いったん「友情」というフィルターを通した上で、組織ないしは国のメンバーの行動を制約しにかかる。すなわち、離脱をいましめ、帰順を促し、心をひとつにすることの大切さを説くわけだ。

 書籍のサブタイトルには、「友だちの友だちは他人だよ」というフレーズを載せてもらった。

 大切なのは友情を野放図に拡大したり、不用意に絶対視しないことだ。友だちは預金残高とは違う。多ければ良いというものではない。肝に銘じよう。

 友だちが少ないことを恥じてはいけない。

 友だちの友だちは、他人だ。

 むしろ、友だちなしで生きている自分の強さを誇ろう。友だちなんかいらない。どうしても友だちが欲しい時、そいつは、鏡の中にいるぞ。

 がんばれ。

小田嶋 隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。コラムニスト。近著に『ポエムに万歳!』(新潮社)、『我が心はICにあらず (小田嶋隆全集 第1巻)』(Kindle版/極楽寺書房)など。

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