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サイゾー×プラネッツ『月刊カルチャー時評』VOL.16

『風立ちぬ』──宮崎駿の業と本質が凝縮された本作を受け、次の世代に課せられた使命

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批評家・宇野常寛が主宰するインディーズ・カルチャー誌「PLANETS」とサイゾーによる、カルチャー批評対談──。

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宮崎駿監督作品の直近4作。このラインナップから考えると、やはり新作はかなり毛色が違っている。

宇野常寛[批評家]×福嶋亮大[文芸評論家]

『崖の上のポニョ』以来5年ぶりとなる宮崎駿の新作アニメが公開された。公開2週で早くも累計動員220万人、興行収入28億円を突破と今夏最大のヒット作となりそうだ。「遺作」とも銘打たれた本作で、宮崎駿は何に挑んだのか──。

福嶋 『風立ちぬ』ですが、僕は良い作品だと思いました。ざっくりテーマを言うと、「良かれと思ってやったことが全部悪夢になる」ということだと思うんですよ。僕はこれが結構身につまされるところがあった。というのも、それってまさに日本の近現代史そのものなんですね。明治に入って文明開化したものの、アホな戦争に突撃して負けてしまった。原発でクリーンエネルギーの夢を見ていたら大事故になった。ツイッター民主主義の夢だって、今や炎上と吊し上げの悪夢に(笑)。でも、そういう理不尽な悪夢化にも別に取り乱さずに、主人公の堀越二郎はただ淡々としている。すべてが裏目に出てしまう呪いを受け入れて生きる日本的感覚を、うまくつかんでいると思いました。

宇野 うーん、僕は実はすごく期待して観に行ったんだけど、全然ノレなかったんですよ。この作品を見ると、宮崎駿にとって左翼的なものとか、エコ思想とか、民俗学的なものとか、全部作品を作るためのネタでしかなくて、その本質にはまったく関係ないことがよくわかってしまう。あるのは、メカへのフェティッシュというか技術萌えと、マチズモと深く結びついたナルシシズムですよね。そしてこの2つの関係だけでこの映画はできている。ストイックに余計なものをすべて削ぎ落としていて、「遺作」として作り上げた自己言及的な作品として観るととても洗練されていると思う。でも、逆に僕はこの映画を観て、自分はミーハーでお調子者で傲慢な宮崎駿が好きだったんだな、って思った。『魔女の宅急便』(89年)でうっかりバブル気分を肯定してしまうときのミーハーさとか、都会のお坊ちゃんが避暑地の農村に夢を見て『となりのトトロ』(88年)を作っちゃうような。

福嶋 確かに『風立ちぬ』はすごく綺麗に作ってあって、『千と千尋の神隠し』(01年)や『崖の上のポニョ』(08年)みたいなグロテスクさはないですよね。振り返ってみると、初期の宮崎駿は「風の作家」だった。重力を切り裂いてバーンと飛翔する爽快感のある映像を撮っていたんだけど、バブル崩壊前後の92年の『紅の豚』でそれは一段落して、そこからは「水の作家」になる。つまり、重力にとらわれたヌルヌルベタベタの世界に移行するわけです。

 それは大雑把にいえば、ヨーロッパ的なものと日本的なものの対立ですよね。麗しい夢はヨーロッパにあるんだけど、現実は悪夢のようにベタベタの日本文化を背負っているという、その分裂が宮崎駿の原動力になっていた。『風立ちぬ』はその両方をまとめたわけですね。枢軸国のドイツやイタリアの素晴らしい飛行機のように空を飛びたいんだけど、現実に日本はすごく貧しいし、関東大震災は起こるし、念願の飛行機を作っても戦争に利用されてしまう。そもそも、戦後日本アニメのルーツが戦時下の国策アニメにあるのだから、宮崎の飛行機アニメも富野由悠季や庵野秀明のロボットアニメも、最初からどっぷり呪われてるわけですよ。でも、そうした呪いや業、怨念を全部ひっくるめて一番美しい飛行機アニメにして弔おう、と。

 考えてみれば、日本人はときどき「弔い」の文学をやってきたわけです。夏目漱石の『こころ』は「明治の精神」を弔う話だし、村上春樹の『ノルウェイの森』は、直子という固有名が生きていた1968年頃を弔う話。『風立ちぬ』もその系譜にあるのではないか。要は、コンテンツというより芸能とか儀式に近い。だから、あまり近代人的な見方をしても仕方がないと思うんですね。

宇野 福嶋さんのその比喩でいうと、『風立ちぬ』はその名の通り「風」のほうが圧倒的に強い作品だと思う。「風」が宮崎駿の本質なら、「水」の部分は宮崎駿のミーハーな部分で、例えば『風の谷のナウシカ』(84年)とか『となりのトトロ』は、彼が持っている本質とミーハーに取り入れたもののハイブリッドだったと思う。でも『風立ちぬ』は、彼が持っていた「風」への憧れと挫折が直球で描かれている。けれどミーハーであるがゆえにハイブリッドな宮崎作品が好きだった僕が、本作を観た直後の正直な感想は、「物足りない」だったんですよね。

福嶋 その物足りなさは恋愛パートの問題でもあるのかもしれない。菜穂子との恋愛パートって完全に“偽物”の書き割りのように描かれていて、本作の主人公のモデルのひとりでもある堀辰雄を批判した江藤淳の言葉でいえば、まさに「フォニー」【1】ですよね。ただ、最近の宮崎作品って『ポニョ』が典型だけど、要は幼女とおばあさんがいれば成立するわけですよ(笑)。逆に「恋する成人女性」なんてのは宮崎からしたらただのノイズだし、大人の恋愛なんてまともに描けそうにないから、最初から割り切って男の欲望ダダ漏れのフォニーでいこう、と。そのへんはむしろ潔い。堀越二郎も内面がゴソッと抜け落ちた、飛行機のことしか考えていないオタクだし、リアルな人間を描く気配が感じられない。

宇野 本作に対してよく指摘されているのが、恋愛パートと技術者パートがかみ合っていないという指摘なんだけど、僕はあまりそうは思わない。むしろ、政治的には無力な男性主体が文学的には救済される、という分裂があって、その分裂をこの映画でいうと結核女子萌えのような「自分より弱い女の子」を所有することで埋め合わせる、というのは言ってみれば戦後の文化空間における男性ナルシシズム表現の代表的なパターンだと思うんですよね。「治者」とか言いながら影で奥さんを殴っていた江藤淳から、「デタッチメントからコミットメントへ」とか言いながらいつも奥さんや、主人公を好きな美少女が代わりに手を汚して罰を受けてくれる村上春樹の小説まで。はっきり言ってこの映画はこのナルシシズムに共感できない人間には厳しくて、だから僕もノレなかった。ただ、僕がここで福嶋さんと話したいのは別のことで、この映画で宮崎駿は自分自身を堀り下げることで、この戦後的男性性のルーツを探って堀越二郎と堀辰雄、要するに「政治と文学」に行き着いたってことなんだと思うんですよね。

 宮崎駿はずっと空を飛ぶ男性主人公を描けなかった作家だと思うんですよ。端的に述べれば、豚のコスプレをするか キムタクのコスプレをするか【2】、つまり過剰な自虐をやるか過剰な自己装飾をしないと「飛べなかった」宮崎駿が、今回初めて生身のまま飛んでいる。それを可能にするために政治性も放棄して、ただ飛行機に萌え、その飛行機萌えを人生を捧げて肯定してくれる結核女子の犠牲が必要だったということだと思うんですよね。まさにそれが戦後社会=オタクのルーツだ、と。

 押井守的に言うと、宮崎駿は本作で「パンツを脱いでいる」【3】のだと思う。自分自身の中を覗き込んでその本質を自分で抉り出した。それが同時に戦後社会というか戦後日本の文化空間、特に男性的なものの表現のルーツを堀越二郎と堀辰雄をモチーフに探り当て、その本質を抉り出すことになっている。僕は1ミリも共感できないけれど、それがこの作家だからこそできる離れ業なのは間違いないですね。

福嶋 確かに、宮崎駿が自画像を描くと、それはアニメとオタクを生み出した戦後日本の自画像にはなるんですよね。村上春樹は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で自分の傷しか書いていなかったけれど、宮崎駿が自分の傷を描けば、それは近代日本の抱え込んできた傷につながる。

宇野 しかし団塊世代以降の作家、例えば村上春樹ってこういう戦後的アイロニーとそのルーツとしての戦前、戦中というモチーフから生まれた想像力、要するに近代に出遅れた国家としての日本の自意識、みたいなものはローカルで矮小な主題だと切り捨てて、もっとマルクス主義の敗北後の個人と世界との関係とか、消費社会との向き合い方とか、そういうグローバルな問題意識でやっていきますよ、というゲームをやっていたはずなのに、『ノルウェイの森』から『1Q84』『多崎つくる』までの20年余りの間で、結局前者の世界観に包摂されていることが丸分かりになってしまったと思う。そして宮崎駿が『風立ちぬ』で堀辰雄を取り込んだ作品を描くことで、それが完璧に証明された。春樹は堀辰雄的なフォニーの世界を乗り越えられなかったんだな、ということがこれを観るとよくわかる。

福嶋 実際『ノルウェイの森』なんて、難病ネタのフォニーそのものだから(笑)。とにかく、戦後はあらゆる価値を資本主義で押し流してしまえ、という脱構築の時代でしょう。で、団塊世代以降の押井守とか村上春樹は、世界を流されちゃった人間がアイロニーや自己言及や偽史を駆使して、なんとか擬似世界を作るというパフォーマンスをやった。つまり「世界喪失者」のドラマですね。ただ、僕は村上や押井のようにアイロニカルな手さばきで消費社会を扱うのは、さすがにこの圧倒的な凡庸化と陳腐化のなかで飽和しつつあると思うんですよ。「世界喪失をもたらした消費文化と情報ネットワークで擬似世界を作る」というのは、もともとかなり強引でアクロバティックな戦略だった気もする。だから、確固たる「世界」を描くならば、『風立ちぬ』みたいに戦後日本社会は一切出さないのが正しいわけです。最近の細田守もたぶんこっちの路線ですね。

宇野 僕はそこはもう少し期待したいかなあ。春樹は行き詰まってしまったかもしれないけれど、世界喪失としてではなく、新しい世界観の構築として消費社会化や情報社会化を受け止めることは可能だと思う。それは団塊世代以降の作家というか、ものを作る人間すべてに課せられた使命のようなものだと思う。

福嶋 ええ。『風立ちぬ』で戦後日本の風景がなかったことにされたのは、確かに寂しいですね。宮崎駿こそ戦後の繁栄と堕落に与したアニメーターなんだから、やはり「豚」的な何かがあって欲しかった。

 ただ、僕は観ていて、今の日本で作品を作るのは「方舟」を作ることに似てくるのかなと、ふと思ったんですよね。戦前の風景をいまセットを組んで実写で描こうとしたら、それこそフォニーになってすごくチープになる。でも宮崎がアニメでやると、かえって異常なリアリティが宿る。『風立ちぬ』は風景のアーカイブとして見ると、本当に素晴らしい。そもそも、宮崎駿が死んだらそこで日本のアニメ史はまぁたぶん事実上終わるわけですよ。そういうことを踏まえて「これは絶対に残さないといけない」という対象と風景を、最高度の技術を使って保存して、方舟に乗せて後世に送り出す。そういう老作家の迫力と執念はやはりすごい。だから『風立ちぬ』は古代的な「芸能」としては成功していると思うんです。

宇野 僕は贅沢を言えばもう一作観たいかな。現代と向き合って、ぶつかりあって猥雑でいびつな宮崎作品のほうがやっぱり好きだったので。

(構成・文/編集部)

宇野常寛[批評家]
1978年生まれ。企画ユニット「第二次惑星開発委員会」主宰。批評誌「PLANETS」の発行と、文化・社会・メディアを主軸に幅広い評論活動を展開する。

福嶋亮大[文芸評論家]
1981年生まれ。「ユリイカ」「文藝」などに寄稿を行う。著書に『神話が考える ネットワーク社会の文化論』(青土社)がある。

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作品紹介
『風立ちぬ』
監督/宮崎駿 プロデューサー/鈴木敏夫 
出演(声)/庵野秀明、瀧本美織、西島秀俊ほか 
配給/東宝 公開/2013年7月20日

 幼少期より空を飛ぶことを夢見て育った堀越二郎は、長じて帝国大学航空学科に入学し、念願の飛行機の設計を学ぶようになった。ある夏、帰省から東京に戻る道すがらで関東大震災に見舞われ、その混乱の中で少女と出会い別れる。やがて飛行機の設計技師として大学同期の本庄と共に就職し、その才能を買われて世界の視察や新機種の開発に携わるようになった二郎は、ある夏、避暑地で震災の時の少女・菜穂子と再会し、結婚を決意する。しかし菜穂子の体は結核に侵されていた。やがて菜穂子は療養所で暮らし、二郎は相変わらず飛行機の設計に没頭する日々を送るようになるが、自身がそう長くないことを感じ取った菜穂子は山を降り、二郎のもとに駆けつけ、つかの間の新婚生活を送るのだった──。

『崖の上のポニョ』以来5年ぶりとなる、宮崎駿監督作。ゼロ戦の設計者だった技師・堀越二郎と、同時代の文学者・堀辰雄(小説『風立ちぬ』)をミックスしてモデルにした主人公・二郎の半生を描く。

【1】フォニー
「まがいもの」「偽物」といった意味。70年代の文学をめぐる論争において、江藤淳が“純文学もどき”を批判する際に用いた言葉。

【2】キムタクのコスプレをするか
『ハウルの動く城』(04年)の主人公・ハウルの声優はSMAP木村拓哉が務めた。

【3】「パンツを脱いでいる」
押井守がアニメ作品を評するときによく使う表現。監督が自分をさらけ出し、キャラクターと自身を重ね合わせている(=私小説的)ことを指す。

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