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町田康の「続・関東戎夷焼煮袋」第9回

きつねを知らねばきつね色を知れぬ

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――上京して数十年、すっかり大坂人としての魂から乖離してしまった町田康が、大坂のソウルフードと向き合い、魂の回復を図る!

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photo Machida Ko

 関東で人が屡々、蕎麦を茹でる、と発音するのを聞き、その都度、強烈な違和感を覚えた。なぜなら蕎麦やうどんというものは大坂では、湯がく、ものであったからである。しかるに関東ではこれを茹でるという人が多かった。うどんや蕎麦を茹でてしまうと、蕎麦やうどんはグチャグチャになってしまって食べられたものではないのではないか。私はそんなことを思い、うどんを茹でるのはやはりおかしいのではないか、と思っていた。

 さらに甚だしい人もなかにはいた。それらの人は、蕎麦を煮る、といった。煮る。あり得ないことだった。そんなことをすれば、蕎麦やうどんは鍋のなかで粥になってしまう、と思っていた。そのとき同時に粥というのも本来は、おかいさん、と言わなければならないのだが、と思っていた。狡兎死して走狗烹らる。という言葉が浮かんで、頭のなかに鍋で煮られる犬の悲惨な映像を見て嫌な気持ちになった。

 だから私は以前はそうした、蕎麦を煮る、とか、うどんを茹でる、などと言う人は文化的な水準の低い野蛮な人、未開の土人、と思って軽蔑していた。しかし、いまは軽蔑しない。なぜならいま自分自身がその人たちと同じグループに属するだけではなく、そのグループのなかでも最下層、最底辺にいることが明らかになったからだ。

 あはは。なんという皮肉だろう。あほほ。なんという茶番だろう。なによりも関東戎夷に成り果てたことを悔い、涙を流して更生を誓った私がこんなことになるなんて。ラララ、楽しいわ。ラララララ、美しいわ。私は一匹の馬鹿豚として関東でもっともポピュラーなお好み焼きを食べて、それこそ豚のようにブクブク肥えて死ぬるのよ。美しいわ。美しきことだわ。そのお好みには豚肉が入っているのよ。キャー、夢のような共食いよ。

 と、私は半ばは錯乱状態に陥っていた。そして、こうなってしまっては、こんな身分になってしまえばそれより他に頼るものがない、それに縋って生きていくしかない、というのはつまりそうお好み焼きミックスの袋の裏の解説書が自分にとってますます重要なものになっていた。

 こんなものに縋ったためにこんなことになったのだが、いまやこれなしに私の人生はなかった。それがどれほど陳腐であろうと愚劣であろうと、一度、それに縋った以上は、それに従うより他ないのだ。独立も尊厳もないのだ。ペラペラの紙でできた、まるで子供だましみたいな旗の下に集い、みんなでワイワイ言いながら、誰もがそれに参加していることを内心で恥じているパレードに参加するしかないのだ。心からパレードを楽しんでいるふりをして。ときには蕎麦を煮て。烹られる犬の苦しみから目を背け、いずれそれが自分の身に起こるかも知れないことだ、ということを絶対に考えないようにして。

 という訳で私は解説書のstep3「焼く」というところを参照した。「焼く」は大坂でも関東でも同じく、焼く、である。よかったことだ。これでまた違った言い回しがあれば私はまたそれについて悲しい思いをするところだった。ま、現状でも悲しいことには違いがないがな。

 そう思いながら解説書を読む。解説書には、200℃に熱したホットプレート、或いは、フライパンに油を薄くひき、生地の裏面がきつね色になるまで焼け。と書いてあった。

 貧農の立場で、そしてハム太郎の立場はなにも言わずにこれに従うより他ないが、私はバカなのでわからないことずくめである。

 冒頭から躓いた。というのは、200℃に熱しておいたホットプレート、或いはフライパンに薄く油をひき云々、と書いてあるのだが、これを読む限りではホットプレートについては200℃に熱しておけ、と書いてあるのだが、フライパンに関しては、熱しろ、とも熱すな、とも書いてない。しかし、200℃に熱しておいたホットプレート、或いはフライパン、とあり、200℃に熱しておいた、ホットプレート或いはフライパン、とは書いていない以上、フライパンは200℃に熱しない、ということになる。

 だったら黙ってそれに従え、というようなものだが、バカなりに思うのは、こうした場合、フライパンと雖もやはり予め熱しておいた方がよくないか? というか、熱しておかないと生地がうまい具合にぱりっと焼けないのではないか? ということで、しかもそれはただ思っているだけではなく、自ら経験したことでもあるし、他の私のような愚昧な民を教導する立場にある偉大なグルたちがキユーピー3分クッキング、きょうの料理、おかずのクッキング、恵美子のおしゃべりクッキング、といった私たちに素晴らしい智識と光り輝く黄金の華のような智慧を与えてくださる番組のなかでおっしゃっておられた。

 そう思うとき私は、やはり解説書に背いてフライパンもまた、熱すべきではないか。と思う。しかし、私の如き一介のハム太郎の勝手な浅い考えで偉大なる叡智の結晶体とも言うべき解説書に背いたらどうなるだろうか。恐ろしい劫罰が下るに決まっている。恐ろしさに身が竦む。

 それから生地の裏面がきつね色になるまで焼け、と書いてあるのだが、まず、裏面がきつね色になっているかどうかは表面からはうかがい知ることができない。焼き固まったかどうかについては篦かなにかを差し込んでシュクシュクしてみれば或いは判るかも知れないが。

 つまり、きつね色になるまで焼けという解説書の厳命を違える可能性が高い、ということである。それは困るのである方法を考える。すなわちstep 3を全うしないうちに、step4「ひっくり返す」に進むという方法で、とにかくひっくり返して裏面の様子を見る。それできつね色になって居れば、そのままstep4に進み、いまだきつね色になって居らなければ、再びひっくり返す、すなわちstep3に戻り、きつね色になるのを待つ、という寸法である。

 ミジンコ並みの知能しか持ちあわせぬ私としては、まあうまく考えた、と思うが、しかしそれもまた実行困難であった。なぜかというと、きつね色という色がどんな色なのかよくわからなかったからである。

 もちろん、きつね色、というのだから、狐の体表というか、狐の毛皮の色を指しているのだろう。ところが愚昧なうえに若い頃から、群れ、に身を投じ、世間の人が誰もが持っているような一般常識や知識、経験を極度に欠く私は生の狐を見たことが一度もなく、きつね色、と言われても見当がつかないのである。

 そこでいったん考えたのは、大坂には有名な、きつねうどん、というのがあるが、あれに乗っかっている、甘辛く煮た油揚げ、と私なんかの立場では敢えてそう呼ぶべきだろう、本来は薄揚げをたいたやつ、の色を指して、きつね色、と言っているのではないか、と考えてはみたが、これが誤りであることは直ちに判った。

 なぜならあれを、きつね、と呼ぶのは、昔から油揚げ(本当は薄揚げ)が、狐の好物とされていたからであって、色が狐に似ているからではないからである。

 だったらどうすればよいのか。図鑑とかで狐の色を調べればよいのか。いやなにも大枚をはたいて図鑑を買ってくるまでもない、いまはインターネットという便利なものがある、そう思って検索をしたところ、たくさんの狐の写真が出てきた。

 それでまず思ったのは狐というのは存外、可愛らしい生き物だなあ、ということで、こんなだったら一匹くらいペットとして飼っても善いくらいだ、ということだが、とにかくいまはそんなことを言っている場合ではない、狐の色を見極めなければ、きつね色とは何色か突き止めなければ、そう思って、眼光ディスプレイ背に徹する勢いで見たところ、豈図らんや、狐の色は油揚げの色に酷似していた。同色と言っても差し支えなかった。

 じゃあそれはどんな色なのか。それは薄い茶色であった。

 なるほど、きつね色というのは薄い茶色であったのか。と取りあえず理解して、とにかく他にも問題はあるが、きつね色、についてはそういう方針でいこう、とそう決意して、その直後、あることに気がついて愕然とした。

 というのは私は、きつね色、を薄い茶色と理解した。しかし、茶色、とは果たしてなんであろうか。茶色は茶色である。では、茶とはなにか。茶とは飲む茶である。さて、きつね色が狐の色であるという論法に則れば、茶色は茶の色であるはずであるが、果たしてそうかというと違う。まったく違う。茶の色はどちらかというと緑色である。このことからわかるのは色というものは必ずしもその名前と合致しないと言うことで、したがってきつね色が必ず狐の色とは言えぬのである。

 というのはしかし考えてみれば当たり前のことかも知れない。

 例えば土地の名前、地名、というのがそうだ。新宿に歌舞伎町というところがあるが、茶色が絶対に茶の色、きつね色がどんなことがあっても狐の色であるなら歌舞伎町では必ず歌舞伎が上演されているはずである。溜池には溜池があるはずである。牛込には牛が込めてあるはずである。狸穴には狸の穴があるはずである。抜弁天では弁天が抜けているはずである。ところが実際にはそんなことはない。

 そんなことはないのになぜそんな名前をつけるのか。紛らわしいぢゃないか。

 そう憤る人がたくさん居ることだろう。けれどもそれは致し方のないことなのかもしれない。なぜなら、そうした名前が付いたのは随分と昔のことで、その時代には牛が込めてあったり、日常的に弁天が抜けていたりしたのだろう。しかし、時代の変化とともに次第に弁天も数が減り、そう簡単には抜けなくなったのだ。そして名前だけが残ったのである。

 ということはきつね色とは何色なのか。もはや私にはまったくわからない。茶色というものを細かく見ていくと、木色、かなと思う部分がある。そういう風にして考えていくと、きつね色というのは泥色なのかな、とも思うが、それも、貧しく卑小な存在である私の愚行・愚見に過ぎず、恐らくは間違っているだろう。

 つまりフライパンの温度の問題、裏返しの問題、きつね色の問題、とわからないことだらけなのだ。けれども普通の関東戎夷の方々はこうしたことを直感的に、そして直覚的にわかっておらっしゃる。ところが、私にはそれすらわからない。大坂でいかず、関東でいかず。こんな私には完全に失敗した泥色のお好み焼きがもはやふさわしい。

 生焼けでぐちゃぐちゃになったお好み焼きを篦にてこき混ぜ、茶碗によそって、まるで擂り餌のようになったそれを匙にて一口食べては泣き叫び、一口食べては土下座して謝罪するのが私の腐りきって衰えきった魂にふさわしい。

 誰に謝罪するのか。決まっている。全世界に、だ。

 その覚悟をした私に怖いものはなかっただろうか。いや、あった。私の頭は恐怖に痺れていた。私は何℃なのかはわからないが、フライパンを熱した。テフロン樹脂加工のフライパンであった。そして油を敷いて、生地を流し込んだ。ジュウ、という音がした。戎、と聞こえた。最底辺の戎。その音は私を責め立てる音であった。

町田康(まちだ・こう)
1962年、大阪府生まれ。作家、歌手。81年に町田町蔵として『メシ喰うな!』でレコードデビュー。著書に『くっすん大黒』(文藝春秋/ドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞)『きれぎれ』(文藝春秋/芥川賞)『告白』(中央公論新社/谷崎潤一郎賞)『宿屋めぐり』(講談社/野間文芸賞)など。近著には『バイ貝』(双葉社)など。

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