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町田康の「続・関東戎夷焼煮袋」第5回

老人でごった返すSMに参り思う オープンマインドの思いやり

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――上京して数十年、すっかり大阪人としての魂から乖離してしまった町田康が、大阪のソウルフードと向き合い、魂の回復を図る!

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photo Machida Ko

 隣のおばはんは無茶苦茶だった。ホースで水を 撒き散らし、喚き暴れ、高木によじ登っては飛び降りるということを繰り返し、「そんなことをしたら死にますよ」と注意したのだが、ちっともやめず、そのうち、近所の人が集まってきて、それはよいのだけれどもなにか私とトラブルがあるかのような誤解を受け、そうではない、あの人が勝手に水を撒いて暴れているのだ、と言ったのだがなかなかわかって貰えず、そのうち警察が来て警察にもしつこく事情を聞かれ、へとへとに疲れてしまった。

 これからは一切の関わり合いを絶とうと固く心に誓った。

 さて、いつまでもそんな愚劣なことを言っていても仕方がない。疾く、真の魂の回復にとりかかろう。

 そう考えて私は、あらよっ、と、ここは関東戎夷らしく表の方へ飛んで出た。なぜか。いうまでもなく、お好み焼きを作成するために必要な材料、すなわち、薄力粉、鶏卵、キャベツ、豚肉などを購入する必要があったからである。

 私はそれらを購入するためにスーパーマーケットに参った。私は常からスーパーマーケットのことをSMと表記しているので、申し訳ない、ここでも以降はSMと書かせて貰う。人に合わせてスーパーマーケットと書くとなんだか、自分を偽っているような気がするので。ちなみに、ホームセンターのことはHCと表記している。

 午前十時であった。SMは老人でごった返していた。やはり、老人は朝にSM、というケースが多いのだろう。それに比べると若い人は夜にSM、というケースが多い。主婦などは午後にSM、という感じなのだろうか。私は夕方にSM、ということが多い。

 多くの老人が狭い通路で立ち止まったり、呆れるほど仔細に商品を比較検討していたりするため、なかなか前に進めない、という苦難を乗り越えて私は野菜売り場と肉売り場に参った。

 私はこの、売り場、という言い方が好きだ。

 売る場所、だから、売り場。同じように乗る場所は、乗り場、である。これらはときに、うりば、のりば、と平仮名に開いてた表示板等があって、なにか、こうウキウキするような感じがしたり、ノリノリな気分になったりする。

 そういう場所に、古今亭うり馬、なんて噺家が現れて、「毎度この、エスエムなんてもなア」と陽気な話を聞かせてくれるのではないか、という幻想も浮かぶ。

 つまりそれくらいにオープンマインド、オープンハートな感じがする、ということである。

 私はすべての場所を、この、○○場、という呼び名に統一することを提案すればよいのではないか、と思う。例えば、便所、などという殺伐とした言い方はやめて、小便し場、とする。食堂、などという毫も心に響かぬ言い方を廃して、飯食べ場、ということにする。ラブホテル、などという欺瞞的な言い方はよして、気色ええことし場、と言う。

 そんなことから私たちの心が解けていく。開いていく。それが平和を愛する諸国民の公正と信義に繋がっていく。

 私たちは、し場、でいろんなことをし、食べ場、でいろんなものを食べ、見場、でいろんなものを見る。そしてそこは常にふたつのものが立つ場所、すなわち、立ち場、でもある。

 というのは、売り場、が、同時に、買い場であるように、し場、は、され場、であり、見場、は見られ場であるのだ。そのことによってなにが生まれるか。言うまでもないが、おもいやり、の心である。

 そしてこれらはみんな大坂の心でもあるのだ。そのことを私は生涯、忘れないで生きていこう。そして南無阿弥陀仏と唱えていこう。税金の高さに文句をつけたって仕方がない。私のこのささやかな消費も農業の方の、そして養豚業の方の、そしてその流通を担う方々の所得の一部になるのだ。みんなで、そう、みんなでうえを狙っていくしかないのだ。

 そんな愚かなことを考えながら私は豚肉とキャベツを買った。

 キャベツについてはいろんな産地のキャベツがあった。まるまる一個のキャベツがあり、また、半分に切ったものもあった。しかし、私には迷いがなかった。

 私は半分に切ったキャベツを買った。なぜならまるまる一個のキャベツを買った場合、自宅の冷蔵庫に使いきれなかったキャベツが残ることになるからである。

 もちろん、そんなことは忘れてしまえばよいのだが、忘れたからといって冷蔵庫のキャベツが消えてなくなるわけではない。なので、忘れつつもときどきは思い出してこれを使わなければならない。しかし、そういうときに限って、どうしても白菜を食べたいような気分になる。鰻の蒲焼きを食べたいような気持ちになる。コーヒーゼリーを食べたいような気持ちになる。というか、なんでもよいからキャベツ以外のものを食べたくなるのである。

 そこで、自分の気持ちに素直になりなさい、と誰かが言っていたのを無理矢理に思い出して、キャベツ以外のものを食べる。

 そんなことを二、三回繰り返すうち、冷蔵庫のなかのキャベツを実に疎ましく思うようになる。なにか別のものを食べる度に冷蔵庫のなかのキャベツが頭に浮かんで嫌な気持ちになる。冷蔵庫のキャベツに恨み言を言われているような気になる。

 また、冷蔵庫のなかのキャベツは実際に疎ましいものとなっていく。というのは、低温で保管しているとは言い条、そこはやはり生もので、次第に萎びて、また、黒ずんで、みるからにまずそうな外観になっていくのである。

 そうなったらもはや廃棄するしかないのだが、なかなかそうできないのは、元は新鮮でおいしかったキャベツを新鮮でおいしいうちに食べてしまわないで、他の白菜やコーヒーゼリーを食べてこんな状態にしてしまったのは自分、という後ろめたい気持ちがあるからである。

 なんてことはキャベツ自分、双方にとって不幸である。

 だから私は半分のキャベツを買うことにしたのである。

 がしかし、半分のキャベツといってもひとつだけ売ってある訳ではなく、売り場、には半分のキャベツが山積みに置いてある。このなかからどのキャベツをとってもよいのだろうか。朝からSM、という老爺たちは鵜の目鷹の目で、これを仔細に点検している。

 なにをそんなに点検しているのか。それは推測するに葉の量である。どういうことかというとキャベツの中心のところには、芯、というものがある。

 葉は緑で柔らかいが、この、芯、は白く硬い。そして葉の部分は食べておいしいが芯の部分は味気なく、かみしめると、人生の悲哀、という言葉が頭に浮かぶ。

 十代の頃、たびたび出演した、Bahama、というライブハウスで供する焼き蕎麦には、このキャベツの芯しか入っておらず、まずいと評判だった。

 しかし、芯のないキャベツはない。というか逆に芯があるからこそ葉が健全に成長する。だから芯のないキャベツを探すのは無駄である。ただし、キャベツは芯があっていきなり葉になるのではなく、芯は徐々に葉になっていく。つまり、芯→葉、という単純な構造ではなく、芯→半ばは芯のような葉→半ばは葉のような芯→葉、という複雑な構造になっており、朝からSM、という生命力に溢れた老人たちは、この、葉、と、半ばは葉のような芯、の部分が全体に対して多くを占める半分のキャベツを探そうと躍起になっているのである。

 これは断面が露わな半分のキャベツだからこそできる芸当であるが、私はこれを浅ましい行為だと思う。卑しい心根だと思う。

 なぜかというと、その根底に、自分さえ葉の部分の多いキャベツを買ってよい思いをすれば、他のものはどうなってもよい、という利己主義的な思想が根付いているからである。

 自分さえ得をすればよい。自分さえよい思いをすればよい。

 私はこうした思想は醜いと思う。むしろ、自分がこの葉の多いのをとったら他の人が芯の多い部分をとることになる。それは気の毒なことだ。と、思う、そうした心がいンまのご時世には必要なのではないか。と思うのだ。

 それがさっき言った、オープンマインドの、思いやり、ということなのではないかと。そんなことを思うのだ。絆、やなんかはどんどん断ち切っていけばよいと思う。なぜなら、絆、というと聞こえはよいがそれは別の言い方をすると、しがらみ、であるからだ。

 しかし、思いやり、は持っておくべきだ。人として。

 と、私がこんなことを言うと、

 ははは。きれい事を言っているな。そんなことでこのグローバル化した世界で生き残っていかれないんだよ。世の中は市場原理主義の競争社会なんだよ。このバカ鳩がっ。死ねばいいのに。

 と言って私を罵倒する方が現れるに違いないが、そうではない。早合点をしてはならない。私はなにも芯の部分の多いキャベツを選んでとれ、と言っているわけではない。思いやる気持ちを持て、と言っているだけだ。

 じゃあ、実際は葉の多いのを選んでとるのか。それだったらSM好きの爺さん婆さんとなにも変わらないじゃないか。と嘲る人があるだろうが、それも早合点だ。

 じゃあどうするのか。

 私は、どちらにしろ選ばない、という態度をとった。

 つまり運を天に任せて一番上にある半分のキャベツをむずととる。それで葉が多ければそれでよし、芯が多くとも恨んだり呪ったりせず運命に従う。

 すべてを神様にお任せする。という態度である。

 その結果はどうだったかというと、まあまあのキャベツだった。というか、瞥見したところ、そこにある半分のキャベツの芯と葉の割合はほとんど同じで、違いがあるといってもそれはけっこうミクロな違いだった。なので選びに選んでも同じ結果にしかならなかったのかも知れない。選ばないと言うことは時間の節約になるし、思いやりも持てるし、いいことずくめだった。

 それから私は行けども行けども私の前に立ちはだかるSMのおじいさんおばあさんに苦しみながら肉売り場にたどり着いて肉を買ったので、次はそのことについて申し上げようかな。

町田康(まちだ・こう)
1962年、大阪府生まれ。作家、歌手。81年に町田町蔵として『メシ喰うな!』でレコードデビュー。著書に『くっすん大黒』(文藝春秋/ドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞)『きれぎれ』(文藝春秋/芥川賞)『告白』(中央公論新社/谷崎潤一郎賞)『宿屋めぐり』(講談社/野間文芸賞)など。近著には『バイ貝』(双葉社)など。

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