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各界一の型破りな元お相撲さん 高橋光弥(元栃桜)のどっこい人生 第72回

今の相撲界と力士がいちばん求められているものとは?

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 前回は立ち合い問題について、俺なりの意見を述べさせてもらった。今回はもっと大きな話として、今の大相撲について感じていることを話させてもらいたい。

 立ち合いで両手を土俵につくというルールのおかげで、相撲の醍醐味である呼吸の読み合いや、立ち合いのパワフルでスピード感のあるぶつかり合いがなくなってしまうという話を前回詳しくした。そもそも立ち合いが変わる前から、以前のような魂の入った、見る者を熱くさせる取り組みが少なくなってきたという声が聞こえていた。簡単に言えば、相撲がつまらなくなった、とうわけだ。

 だが、終えは単純に「昔のほうがよかった」「今の力士ときたら」などといった言葉だけで片付けたくはない。時代の流れが変わるのは当たり前のこと。人々の感覚や価値観が変わるのも当然のことだ。

 力士だって、俺たちが現役だった40年前の頃とは、力士になる以前の、育ってきた環境がまるで違う。闘志の源ともいえるハングリー精神を持つことを、今の力士に求めるのは酷なことだ。日本が貧乏だった時代には、土俵の上に富と名誉が転がっていると思えたからこそ、体力や運動神経の優れた人材が角界に押し寄せて、みんな切磋琢磨していた。相撲を見る側も、土俵の上で成功をつかみ取ろうとする男たちの闘いに己を置き換え、心を熱くしたわけだ。若乃花、栃錦がしのぎを削った時代から、大鵬や柏戸、北ノ湖や輪島が活躍した時代まではそんな空気が日本を覆っていたような気がする。

 その一方で、日本全体も切磋琢磨し、社会も経済も急激に成長した。なにもお相撲さんにならなくても、お金や名声を得る手段はいくらでもあるし、見る側にしても、相撲以外にも心を熱くできる娯楽はたくさん増えた。土俵を一歩下りた世界は、日々大きく変わっているのだ。
 今の20代の力士などは、バブル時代幼少期を過ごし、ハングリーなどという言葉とは無縁の生活を送ってきているだろう。

 だからこそ、俺は土俵に上がるにふさわしい精神や肉体を育むための「修業」ともいえる、相撲部屋での生活がとても大事だと思う。育った家が貧乏であろうが、金持ちであろうが、相撲部屋に入れば誰もが横一線からのスタートだ。絶対的な上下関係の中で、いい思いをしたければ、番付を上がるしかない。がむしゃらに稽古して、土俵の上ではその修業の成果を発揮する。稽古での苦労、部屋での厳しいしごきなどを無駄にしないためにも、土俵上で全身全霊をぶつけようと思うんじゃないか。社会がどんなに変わっても、相撲部屋における修業の携帯は変えるべきじゃないと思う。育った家が貧乏であろうが、金持ちであろうが、相撲部屋に入れば、誰もが横一線からのスタートだ。絶対的な上下関係の中で、いい思いをしたければ、番付を上がるしかない。ばむしゃらに稽古して、土俵の上ではその修業の成果を発揮する。稽古での苦労、部屋での厳しいしごきなどを無駄にしないためにも、土俵上で全身全霊をぶつけようと思うんじゃないか。

 社会がどんなに変わっても、相撲部屋における修業の形態は変えるべきじゃないと思う。最近、不幸にして若い力士が兄弟子たちのしごきによって亡くなるという事態が起こったが、このことひとつを取り上げて、「厳しい稽古やしごき、かわいがりはいけない」と決めつけては、力士たちの精神や肉体は、さらにやわなものになっていくのではないだろうか。

 しごきとは、厳しい鍛錬を意味する。兄弟子たちからの、不条理とも思える肉体的なしごきの中から得るものはたくさんある。俺もばちばちやられた。やられている時はたまらない気持ちになったが、過ぎてみればありがたい気持ちだ。気がつけば、しごきの中で、覚えたことは山ほどある。


しごきが教えてくれること 正しいしごきを教えること


 たとえば、素手でも竹刀でも、頭を思いっきり叩かれる時、最初は後ずさりして、身をこごめて受けてしまうものだ。これがとてつもなく痛い。だが、そのうち、叩かれる時に半歩前に出て受けると、衝撃が半減することがわかる。恐怖心だって、弱まっていく。このことが、突っ張りやら張り手やらが飛んでくる土俵の上で、どのくらい役に立つことか。土俵に立ったら頭で考えている時間なんかない。だから、頭ではなく、体(五体)で覚える必要があるんだ。

 もちろん、肉体的ダメージを与えるしごきが素晴らしいことだと推奨するつもりはない。だが、必要なことだとは思う。

 自ら痛みを感じたことがない人間は、他人の痛みもわからない人間になる。相手に対して、どこまで手を加えると大けがになり、下手すると死に至らしめてしまうかというのことの想像力が働かなくなるのだ。

 たとえば、しごきの中で、相手の体を叩くときでも、顔や胸や腹や股間といった「内側」を攻撃してはいけないというのは鉄則だ。背中やももなどであれば、大きなけがにつながることはめったにない。もちろん、相手の体がどれだけできているかによっても、加減を変えなければいけない。まだ体ができていない新弟子に、2〜3年稽古を積んだ者と同じことをしては、今回のような大事故につながってしまう。

 つまりは、鍛錬は必要なものという前提で、正しいしごきの仕方を部屋の中での団体生活で教えていくことが大事なのだと俺は思う。それなのに、今は表面上はしごきなどあってはいけないものとして、現実にふたをしてしまうから、強い力士を育てる上でも、正しい人間性を培う上でも、中途半端な状況を生んでしまっている。

 俺がまだ入門したての頃、こんなことがあった。

 確か、長野県諏訪辺りに巡業に出たときだと思う。なんで兄弟子たちの怒りを買ったのか今になっては覚えていないが(それぐらい、しょっちゅう怒られていたからな)、数人がかりで袋だたきにされたことがあった。この時は、気絶するほどバシバシと叩かれ、挙げ句には近くにあった貯水池に放り込まれてしまった。ところが、叩かれ、火照った体には、ひんやりとした貯水池の水がとても気持ちよかった。兄弟子たちが気を利かせて貯水池に放り込んだのかはわからないが、このとき、貯水池に浮いていた俺の前を、風呂の帰りだったのだろう、首にタオルを巻いた当時幕内力士だった青ノ里関が通りかかった。

「お、兄ちゃん、やられているな? 上がってこいよ」

 青ノ里関は優しく声をかけてくれ、貯水池から出てきた俺にお小遣いをくれたのだ。「こうやって強くなっていくもんだ。これからも頑張れよ」と。

 俺は青ノ里関という人を神様だと思ったね。こういうちょっとした体験が、若い人には励みになるものだ。俺が十両に上がったときには、自分の部屋以外の人間では、青ノ里関に真っ先に挨拶にいった。

「おかげさまで関取になれました! ありがとうございます」

 青ノ里関は俺に小遣いをくれたことなど覚えていなかったが、こうした縦社会の中で、目上の人から与えられた温情は一生忘れないものだ。青ノ里関以外にも、何人かそういう先輩力士はいた。

 こうした体験をすると、今度は自分が上の立場になったとき、よその若い者に対しても優しくできるものさ。「頑張れよ」と言われた者が、成長したときに「頑張れよ」と言う立場になる。こうした部屋の垣根を超えての、しごきが生み出すプラスの部分が連鎖して息づいていたのが相撲界だった。


夜が明けるのを土俵下で寝ながら待つ


 話はちょっと変わるが、土俵上での稽古というのも、部屋の中だけでやるものではない。よその部屋の力士に稽古をつけてもらう、つまり他流試合をやってこそ、力士は強くなっていくものだ。

 この他流試合は、巡業で行うのがもっぱらだ。だが、最近は不景気のあおりもあって、巡業事体がかなり減っている。

 巡業先では本土俵がひとつしかないから、ほかの部屋の力士とやるために、土俵上が取り合いになる。朝8時にもなると、番付上位の力士たちに土俵を譲らないといけないので、若い力士たちは日が出てすぐに土俵に集まる。明るくなったら真っ先に稽古を始めるために、土俵の下で寝ていた奴もいたほどだ。一日の最初の土俵に上がって稽古をすることを「一番土俵を取る」というのだが、ここまでして稽古をしていた力士はほとんどが強くなっている。俺はそれをもっぱら見ていて、ときどき参加する程度だったから、十両止まりだったわけだが、それすらせず、土俵に近づかぬ奴が多かった。そんな奴は当然強くなれない。

 今、こうした風景が巡業先でどれだけ見られるだろうか?

 こうした点は、社会や経済状況がどうこうとは関係ない。一般の社会から隔絶された存在である相撲界に受け継がれてきた伝統である。この伝統を守っていかなければ、大相撲は衰退していくだろう。

 稽古やしごきは、「ゆとり教育」などといっている今の社会の風潮には合っていないかもしれない。だが、相撲は一般的な社会人などが参加することのない、特殊な世界のものなのだ。古墳時代から続くとされる神事であり、祭りである相撲には、独特の神秘性があり、伝統文化としての価値もあるってもんだ。

 世の中がどんなに変わろうとも、土俵の上だけは変わらず、伝統を守っていく、その伝統を守るにふさわしい修業を力士たちは行っていく。それが最も大事なことではないだろうか。

 こう言いたくなったのも、最近、相撲を取ったこともない、また相撲の歴史や伝統的価値というものを十分に理解していない「外側」の人たちが、自分たちの納得できるものにしようと、ああだこうだと口を出していることに、俺は強い違和感を持っているからだ。確かに外部の意見も大事だが、余計な口は出すなといいたいね。

 この連載を読んでくれている読者にも、相撲が持つ本質的な意味や面白みをぜひ知ってもらいたい。どうしてあんな格好で戦うのか? どうして土俵は円いのか? 土俵の上にかかる、あの屋根はなんなのか? そうした一つひとつに深い意味と物語がある。それを知ると、相撲を見る面白さがグンと増すはずだ。相撲を単なるスポーツなんていう言葉では片付けられないことも、わかってもらえると思う。

 次回からはそんな話をしたいので、もう少々、大の相撲ファンである俺の戯言に付き合ってもらいたい。


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