『ミナリ』
時は1983年、アメリカ南部・アーカンソー州の片田舎に韓国からの一家が移住してきた。農業でアメリカン・ドリームを夢見るも、住む家はトレーラーハウス、さらに幼い息子には心臓の疾患が。やがて祖母スンジャを韓国から呼び寄せることになるも、農業経営はうまくいかず追い詰められていく……。第36回サンダンス映画祭でグランプリと観客賞、第78回ゴールデングローブ賞外国語映画賞、第93回アカデミー賞助演女優賞を受賞。
監督:リー・アイザック・チョン/出演:スティーブン・ユァン、ハン・イエリ、ユン・ヨジョンほか。全国劇場公開中。
『ミナリ』は韓国系移民2世のリー・アイザック・チョン監督の少年時代を基にしている。
1983年、韓国からの移民のリー一家がアーカンソー州の田舎に引っ越してくる。夫ジェイコブは貯金をはたいて土地を買ったのだ。彼は妻モニカとヒヨコの雄雌鑑定士として働きながら、自分の土地を韓国野菜の畑にしようとするが、幼い子どもたちの面倒を見る余裕がない。5歳の息子デヴィッドには生まれつき心臓に小さな穴があり、心配だ。そこでモニカの母スンジャ(ユン・ヨジュン)を韓国から呼び寄せるが……。
『ミナリ』が言葉と人種の壁を越えてアメリカで高く評価されたのは、開拓農民家族の苦難という移民国家アメリカの原点を描いているからだと言われているが、実はそれだけではない。
「エデンの園だよ!」
自分の土地に着いた父ジェイコブは言う。しかし、住む家はみすぼらしいトレーラーハウスだ。それを見てモニカは「これがあなたの約束してくれたものなの?」と失望を隠せない。夜になると激しい嵐に吹きさらされてトレーラーハウスは船のように揺れ動く。
これらの描写は聖書に基づいているのだ。
ジェイコブは旧約聖書の創世記に登場するユダヤの始祖のひとりヤコブの英語名だ。「エデンの園」は、人類の父アダムが住んでいた楽園。そこから追放されたアダムとイブとその子孫は荒野を流浪しながら「約束」の地を求めた。大雨に打たれるトレーラーハウスはノアの箱舟を思わせる。
リー・アイザック・チョン監督の父母は熱心なクリスチャンで、アメリカで教会を始めている。
「農業で苦労した父と、映画監督を目指してもがく私自身を、家族を守るために神と格闘したヤコブに重ねたんです」
ヤコブは天使と格闘し、膝を砕かれてもしがみつき、「私の家族を祝福してくれるまで離しません」と嘆願し、根負けした天使は「わかった。これからイスラエル(神に選ばれし民)と名乗りなさい」と言う。旧約聖書はヤコブやアダムやノアやモーセなどの父たちが家族のために神の課した試練と戦い続けるファミリー・ヒストリーだ。
だが『ミナリ』のジェイコブは神を信じない。ダウジングも拒否して自分で井戸を掘る。でもすぐに水は枯れる。その土地は呪われているという。聖書ではカインが弟アベルを殺したため、神は人類に、農作で苦労し続ける罰を与えたと書かれている。
地元の老人ポールは土地を清めようとペンテコステ(異言)で祈り、悪魔祓いをしてくれるが、ジェイコブはバカバカしい、と笑う。ポールは新約聖書で「知恵では神を知ることはできない」と書いたパウロに重ねられる。
では、おばあちゃんは何なのか?
おばあちゃんはお茶目でいたずらで予測不能の存在。デヴィッドと仲良くなり、小川に韓国から持ってきたミナリ(セリ)の種をまく。
死を恐れるデヴィッドをおばあちゃんが抱きしめると彼女は脳梗塞になる。するとデヴィッドの心臓の穴はふさがっている。病をおばあちゃんが吸い取ったように見える。
おばあちゃんは「神の恩寵」である。キリスト教では幸福も不幸も神の恩寵だと考える。
おばあちゃんが川のほとりで育てたミナリは、エジプトを脱出し、荒野をさまよって飢えたユダヤの民を救ったマナ(謎の植物)を思わせる。また、イザヤ書44章で神はこう言っている。
「私のしもべ、ヤコブよ、よく聞きなさい。あなたの子孫は水辺の草のように繁栄するでしょう」
まちやま・ともひろ
映画評論家。サンフランシスコ郊外在住。『映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀』 (新潮文庫)、『今のアメリカがわかる映画100本』(小社刊)など著書多数。