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オトメゴコロ乱読修行【67】

妻の怨念、夫の観念『妻が口をきいてくれません』圧巻の“胸クソ”読後感

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――サブカルを中心に社会問題までを幅広く分析するライター・稲田豊史が、映画、小説、マンガ、アニメなどフィクションをテキストに、超絶難解な乙女心を分析。

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「胸糞が悪い」。コミックエッセイ『妻が口をきいてくれません』(集英社)の感想を一言で言うと、こうなる。単行本の帯キャッチは「離婚よりも、生き地獄」。なお、こちとら離婚経験のある40代男性だ(多くは語るまい)。

 本作は、夫視点の章→妻視点の章→事の顛末章の順に、三部構成で展開する。

 夫視点では、専業主婦の妻・美咲が突然口をきいてくれなくなって困惑する夫・誠の日々が綴られる。いくら理由を聞いても答えてくれず、コミュニケーションは2人の子どもを通してのみ。どんなに機嫌をとっても無視され、顔を見てもくれない。そのまま5年以上が経過し、限界に達した誠が離婚を切り出すところで、夫視点が終わる。

 続く妻視点は、種明かしの章。子どもが生まれて以降の誠の言動が、無神経・無自覚に美咲の尊厳を傷つけていたことが、美咲の鬼気迫る独白によって細かく述懐される。その内容は、巷のツイッター専業主婦アカウントが日々告発している夫の無神経発言、ほぼそのまま。「いったい今日なにしてたの? 一日家にいるんだからいろいろできるでしょ」「ただ段取りが悪いだけだと思うよ」――。そういう夫たちの胸の内は決まって、「俺が働いて養ってるんだから、それより“ずっと簡単な”家のことぐらい、ちゃんとやれよ」だ。

 美咲にしてみれば、精いっぱい主婦業を頑張っているのに、誠からは労いどころか批判とダメ出ししかこない。殺意にも近い恨みと失望が蓄積されてゆくが、離婚したところで子どもを育てる経済力はない。だから美咲は、子どもたちが成長して養う必要がなくなる“その日”まで、「無」になって役割をこなそうと決意する。

 美咲は独白する。「“その日”のために準備もしている。新しい服も買わずにお金も貯めてる」と。

 こうなったら、男が原因に気づいて「これから態度を改めるからごめん」と妻に謝罪したところで無駄だ。女にとっては、目の前でしゃあしゃあと宣言された清々しい決意表明など、「このクソ男が今まで私にどんな酷い仕打ちを自分にしてきたか」の記憶によって、簡単にかき消されてしまう。

 女は「私があなたの言動で嫌だった」ことを、どんなに些末なことでも正確に記憶している。何年も、何十年も。そして、ある怒りが沸き起こった瞬間、過去に同種の怒りが生じたエピソードを一瞬で思い出し、当時の感情が無劣化で脳内再生される。夫婦喧嘩において、揉めている案件とはまったく無関係の過去エピソードを妻が突然持ち出して夫が責められるのは、そういうわけだ。

 と、この程度は巷の「男女脳」本によく書いてある。問題は、顛末章の結末だ(作者の野原広子が女性であることは、くれぐれも念頭に置くべし)。

 誠は「美咲がずっと離婚を切り出さなかったのは、子どもたちが美咲に離婚しないでと懇願したためであり、愛は5年前時点でとっくに冷めていた」と知って激しく絶望。泥酔し、「オレを捨てないでくれよぉ」と情けなく泣き叫ぶ。そして美咲の体に下僕のようにすがりつき、「ごめんよお オレが悪かったよぉ 愛してるよお… だからオレを… 捨てないでくれよぉーーーーー」と惨めに嗚咽し、それを娘や近所の人たちに見られる。

 すると美咲は、醜態を晒す誠に鬼の形相で怒りながらも、「私もごめん」と返し、翌日から平穏な日々が戻ってくるのだ。

 なぜ美咲は態度を軟化させたのか? それは、美咲が「誠が自分と同じ程度の苦痛を長く味わった」ことを誠の醜態から判断し、溜飲を下げたからだ。誠が「これから態度を改める」と約束したからではない。

 女が男に対する怒りを収めることがあるとすれば、男が「自分と同程度に何かを失った」と目視確認できたときだけだ。共働き夫婦が子どもを作る際、妻だけが会社を辞めることが夫婦納得ずくの結論だったとしても、妻の夫への憎しみは一生残る。なぜなら、夫は「何も失っていない」からだ。

 妻が夫に育休をとってほしいのは、自分の育児負担比率を下げたいからではない。夫にも自分と同じように「やりたい仕事が思うようにできない」不自由さを味わい、辛酸をなめてほしいからだ。だからこそ、夫の「俺が金を払って家事代行に頼めば済む話でしょ?」の提案に、妻は怒り狂う。

 女は、パートナーの男も自分と同じように傷つくことで、自分に共感してほしい。自分と同じように何かを損なってほしい。なぜって? 女は生まれた瞬間からずっと、身体的にも(月経による体調変動という不自由)、社会的にも(男女賃金格差の理不尽)、デフォルトで「損なわされて」いるからだ。女が男に対し、まるで息をするように「補償」を求め続けるのは仕方がない。

 ただし、男が土下座して女が溜飲を下げたからといって、夫婦の関係が元に戻るわけではない。喩えるなら、「最愛の彼を殺した殺人犯が、両手足を切り落とされる拷問刑に処されれば、彼女の溜飲は下がるかもしれないが、殺人犯の罪が消えるわけでも、恋人が生き返るわけでもない」。

 その証拠が、『妻が口をきいてくれません』最終回の最終ページに明示されている。美咲は誠を会社に送り出したのち、パートに出かける直前に自分の通帳を見て「まだこれだけ……」とつぶやく。 “その日”のための準備は、依然として続いている。美咲は誠を許したわけではない。後味の悪いホラーとしか言いようのない結末だ。

 専業主婦妻をパートナーとする夫がこのような地獄を避けるには、常日頃から一秒一瞬たりとも休むことなく妻の気持ちを想像し、推し量り、配慮に満ちた言葉をかけ続けるしか方法はない。だが、「常に他人の気持ちを想像し続ける」など、かなり心の余裕がなければできないことだ。

 では、どうしたら男は心の余裕が持てるのか?

 乱暴承知で言い切ろう。「十分な収入」を確保することである。理由はチャート式で考えれば簡単だ。「心の余裕は自己評価の高さから生まれる」→「多くの男は自己評価=世間からの評価」→「世間からの評価≒仕事の評価」→「仕事の評価は給与額でしか可視化されない」

 だいたい、(割高の洗剤を買ったことをチクチク責めるなど)夫が専業主婦妻の一挙一動にいちいちダメ出ししたくなるのは、「俺の稼ぎを、俺の知らないところで無駄遣いしてるかもしれない」という不信感があるからだ。しかし「稼ぎ」が十分に多ければ、些末な不経済などいちいち気にならない。金持ちけんかせず。貧すれば鈍する。

 収入の低い夫が妻に配慮できないわけではない。ただその分、夫には尋常でない人間力と度量が備わっている必要がある。身長165センチでもバスケットボール選手になれないわけではないが、そのためには身長185センチの選手を圧倒するほどの尋常でない身体・運動能力が必要だ。それが備わっていてようやく、185センチの選手と同じスタートラインに立てる。

 婚活女性が「相手の希望年収は最低600万」などと言ってはよく失笑されるが、あれは筋が通っているのだ。彼女たちがどうしても避けたいのは、「年収が低い男」というより、「妻に配慮する余裕を持ち得ない男」である。心の余裕度はプロフィールに書かれないので、可視化された年収で判断しているにすぎないわけで。

 自分で書いていて、本当に胸糞が悪い。なんかもう、全体的に。

稲田豊史(いなだ・とよし)
編集者/ライター。キネマ旬報社を経てフリー。著書は『「こち亀」社会論 超一級の文化史料を読み解く』(イースト・プレス)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』(PLANETS)、『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)。編集担当書籍は『押井言論 2012-2015』(押井守・著/サイゾー)、『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著/キネマ旬報社)など。

『妻が口をきいてくれません』
(野原広子・著/集英社)
集英社のサイト「よみタイ」連載時は累計3000万超のPVを獲得。筆者周囲の30~40代既婚&バツイチ男性の間でも大きな話題となり、「胸糞が悪い」「不快」「思い出して吐き気がする」の文字がLINEで躍りまくった。なお、作中の美咲が口をきくのをやめた最後のダメ押しは、誠による「餃子はもっとパリっと焼かなきゃ。せっかくの餃子が台無しー」の一言。

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