「第一回遣欧使節団」(ナダール撮影/制作:1862年、プリント:1988年/東京都写真美術館蔵)
1861年、幕府は欧州諸国に対して開港・開市の延期交渉を行うために第一回遣欧使節団(文久使節団)を送った。翌年3月にフランス入りした一行は、滞在していたパリのホテルとキャプシーヌ大通りにあったナダールの写真館で記念写真を撮影している。当時の写真館は書き割りの背景画や社会的地位を表すような装飾を使うのが一般的であったが、ナダールの肖像写真の特徴はそうした装飾を排し、無地の布を背景に柔らかい光で撮影することでモデルの個性を浮かび上がらせるというものであった。リラックスした様子で写る使節団一行の写真がいくつか残されている。
「第一回遣欧使節団」(ナダール撮影/制作:1862年、プリント:1988年/東京都写真美術館蔵)
彼らの写真はパリの自然史博物館に所属していたフィリップ・ポトーの手でも撮影されている。福沢は1860年に訪れたアメリカでも写真撮影の経験があったためか、ほかの団員たちよりも幾分かこなれた様子で、口元にうっすらとほほえみを浮かべて写っているように見える。この撮影を行ったポトーが、博物館内の植物園・ジャルダン・デ・プラント内に作られたスタジオでさまざまな人種を記録する「人類学コレクション」の収集を行っていた博物学者であったことを考慮するならば、正面像を撮影される場合の「正解」は、無表情で写ることであったかもしれない。ナダールの写真館と同じ無地の布の前での撮影であったが、それはモデルの個性や内面を写し込むためのものではなく、その外見を正確にトレースするための方法であった。ポトーの手法は、骨格形質の測定のために正面からと側面からの2度、半身像で撮影するというものであった(福沢は眼を伏せた様子も撮影されている)。逮捕時に身長計の前で撮影される「マグショット」のような形式である。使節団一行の中には正面のほかに横顔まで撮ってくれたので、親切なことと喜んでいた者もいたようであるが、彼らが写った2枚組の写真は、旅先での記念写真でもなく、肖像写真でもなく、人類学の標本として撮影されたものであった。ポトーの知見が添えられた写真は、博物館内で販売されることもあったという。後に日清戦争を「文明と野蛮の戦争」と表現する福沢が、幕末期に「野蛮」や「未開」の側として西洋人のカメラに収まっていたことになる。
「福沢諭吉」(フィリップ・ポトー撮影/1862年/日本カメラ博物館蔵)
使節団一行はパリを離れた後、イギリスへ渡り、第2回ロンドン万国博覧会の開会式に非公式ながら参加している。この時は駐日英国公使オールコックが収集した伝統的工芸品などが日本のコーナーに展示されていた。羽織袴で髷を結った彼らは、万博を見学する側であると同時にロンドンの観客に見学される側でもあるというアンビバレントな位置にあったといえよう。古今東西の物産を集めた博覧会場において、和装の日本人たちはあたかも展示物の一部のように観客たちから好奇の視線を集めていたのである。
1862年3月24日付の「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された第2回ロンドン万国博覧会の挿絵
帰国後の福沢は、海外視察で得た知見をもとに『西洋事情』(1886年)を執筆し、その中で博覧会とは「元と相教へ相学ぶの趣意にて、互に他の所長を取て己の利となす。(中略)愚者は自から励み、智者は自から戒め、以て世の文明を助くること少なからずと云ふ」場であると紹介している。日本が国家として正式に万博に参加するのは、福沢たち日本人が初めて眼にしてから11年後のウィーン万博を待たねばならなかった。
1862年3月24日付の「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された第2回ロンドン万国博覧会の挿絵
1862年の渡欧から23年後に福沢が書いた「脱亜論」には、「西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故とて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」と説かれている。維新政府は「西洋の文明国と進退を共に」すべく殖産興業を推進し、国内でもその成果を示すため内務卿・大久保利通らの主導によって内国勧業博覧会を次々と開催していく。当初は国内向けの経済博覧会であったが、1903年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会は、規模的にも内容的にも「帝国の博覧会」と呼ぶべきものに変容していた。
(次号に続く)
小原真史
1978年、愛知県生まれ。映像作家、批評家、キュレーター。監督作品に『カメラになった男―写真家中平卓馬』がある。著書に『富士幻景―近代日本と富士の病』『時の宙づり―生・写真・死』(共著)ほか。現在、IZU PHOTO MUSEUMで企画した増山たづ子展が開催中。