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各界一の型破りな元お相撲さん 高橋光弥(元栃桜)のどっこい人生 第76回

殉国七士の遺骨が祀られた墓を知っているか?

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 去る4月29日、俺は愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山の山頂にいた。ここに何があるかを知っている日本人は、ごく少数だろう。

 ここには「殉国七士の墓」、または「殉国七士廟」と呼ばれるものが建立されている。殉国七士とは、太平洋戦争の責任を問われ、A級戦犯の汚名を着せられ処刑された、東条英機、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章、広田弘毅の7名のことだ。

 俺は、30年近く、毎年4月29日の昭和天皇の誕生日に、殉国七士の墓に参っている。この日は、墓前祭が行われるからだ。

 A級戦犯の墓前祭に参加しているなどというと、すぐに「右翼だ」「戦争賛美だ」という人がいるが、国や国民のために命を捧げた人たちを敬う気持ちを持って、何がいけないのだろうか。

 もちろん、戦争を礼賛する気は毛頭ない。過去の過ちから学び、反省するところはする。だが、太平洋戦争に関する歴史は、かなりゆがめられて伝えられていると俺は確信している。それを説明していると、本が1冊書けてしまうので、ここでは割愛するが、ひとつ言えるのは、いつの時代も歴史というのは、勝者=時の権力の論理でつくられるということだ。太平洋戦争も、敗者である日本の論理や事実は抹殺されたといっていいだろう。勝ったほうが善で、負けたほうが悪。しかし、事実はそんな単純なはずがない。日本人であるなら、あの戦いのどこに「正義」があったのかを積極的に知ろうとすべきだろう。

 戦勝国が一方的に敗戦国を裁いた東京裁判の妥当性・公平性に異を唱える向きも、昨今は強くなっている。だが、その裁判で裁かれた殉国七士が祀られた墓については、マスコミが見て見ぬふりをするかのように、その存在すら報じられることはほとんどない。

 この殉国七士の墓の成り立ちを、墓前にある石碑に刻まれた解説を元に紹介しよう。

 東京裁判により、絞首刑の判決を受けた先の7人に対して、昭和23年12月23日未明に刑が執行された。7人の担当弁護士は、事前にGHQと掛け合い、遺体を家族に引き渡すよう申し入れたが、聞き入れられなかった。そこで弁護士の一人である三文字正平を中心とした有志が、遺骨だけでも家族に渡したいと考えて、遺骨の奪取計画を練ったそうだ。

 7人の遺体が、横浜の久保山火葬場で火葬されると知った三文字弁護士らは、同火葬場長の協力を取りつけ、米軍による厳重な監視が行われる中、同軍が残骨捨場に遺棄していった遺骨の一部を入手することに成功した。遺骨は、7人のものが混ぜ合わさっていたが、骨壺一個がいっぱいになるほどの量があったそうだ。一方、米軍が持ち去った遺骨は、太平洋に散骨されたという話もあるが、真実はわかっていない。

 三文字弁護士が奪取した遺骨は、人目を避けて、伊豆山中に祀られていたが、その後、遺族の同意のもと、政財界など各方面の有志の賛同を得て、地理的に日本の中心とされる、三ヶ根山山頂に墓碑を建立し、安置されることになったのである。

 そして、昭和35年8月16日に関係者と遺族が列席して墓前祭が行われて以来、日を4月29日に移して、毎年執り行われることになったそうだ。

 そんな墓前祭に俺が参列するようになったきっかけは、当時、付き人をさせていただいていた東日本最大の侠客団体S会の堀政夫総裁の存在である。総裁は、俺が付き人をする以前から、この墓前祭の趣旨に賛同して、惜しみない協力をしていたという。協力といっても、その規模といったら半端じゃない。総裁が、殉国七士の墓に初めて行ったとき、まだそこは深いやぶの中で、普通の人がやすやすと足を踏み入れられるような場所ではなかったそうだ。

 地元の奉賛会の方々が、墓碑の維持に尽力されていたそうだが、資金的にも労力的にも限界がある。そこで、総裁が物心両面で支援に乗り出したわけだ。

 総裁は、身を削って墓碑の周辺の整備に寄与した。アスファルトの参道をつくり、両脇には巨大な石製の門柱を設置し、手水場やさまざまな石碑を建立した。

 その中のひとつに、日本を代表する陶芸家であり、彫刻や書なども幅広く手がけた・作の不動明王の像がある。高さ10メートル近い立派な像で、間近で見ると、その存在感に圧倒される。

 総裁に引っ張られるように、関係者も墓の整備に注力することになり、いまや立派な施設になった殉国七士廟は、国定公園内に位置することもあり、地元の観光案内にも出ているほどだ。

名前を伏せようとする堀総裁を嘘つき呼ばわり

 自分の信念を貫き、労を惜しまない総裁の姿勢には、頭が上がらない。しかも、ここでは書ききれないが、こうした奉仕活動を全国各地でいくつも行っていたのだ。

 だが、そんな総裁に対して、俺はひとつだけ物言いをつけたことがあった。石碑や像などを建立すると、建立者の名前が末代まで残るように石版に刻まれるものだが、総裁はそれを拒否し続けたのだ。
それだけではなく、総裁は、墓前祭に来てくれた、歌手やスポーツ選手といった各界の著名人の名前を建立者として石版に刻んだ。彼らは、ゲストとして参加した立場。わざわざ山奥まで来てくれたことには感謝するが、総裁を差し置いて、石版に名前が残るような立場ではない。

 俺は、総裁が、どれだけ墓の整備に骨を折っていたか十分に知っていたので、不思議で仕方がなかった。奉賛会の人をはじめ、関係者の思いも同じだったはずだ。だが、誰も、総裁に対して、意見できる者はいなかった。

 そりゃそうだ。総裁は、1万人を優に超える侠客たちの頂点に立つ人物。恐れ多くて、誰も進言や意見などできやしなかったのだ。

 だが、良くも悪くも単細胞の俺は違った。納得できないと思ったら、相手が誰であろうと、確かめずにはいられないのだ。

「親父さん(俺は総裁のことをそう呼んでいた)の名前が、なぜ出てないんですか?親父さんがいてこそ、これだけ立派なものになったんじゃないですか」

「だめだ、だめだ。俺はヤクザだよ。こういう公のものに名前を出しちゃいけない人間なんだ」

 俺も生意気だったねぇ。そんな総裁の謙虚さを真っ向から否定して、こう食ってかかったのだ。

「親父さんがどんな肩書であろうと、人には変わりないじゃないですか。墓前祭のゲストたちは、お呼ばれしたから来た人たちで、身を削ってまで何かをしたわけじゃないんですよ。30年後、50年後にここを訪れた人たちは、刻まれた名前を見て、それがどんな人なのかわかりません。本当に建立した人の名前を残さないなんて、歴史をゆがめていることになるんじゃないですか?それは、嘘ですよ」

 この言葉には総裁もカチンときたらしく、「なにぃ、俺を嘘つき呼ばわりするのか?俺は名前を残すためにやっているわけじゃない!」と、ピシャリ。俺の言い分に、蓋をしてしまった。

 らちが明かないことにいらだった俺は、ついには千葉県野田にあった総裁の自宅に押し掛け、再度申し入れた。

「やっぱり納得いきません!」

 このしつこさに、総裁もさすがに参った顔をしていたなぁ。「俺にここまで意見してくるやつは、桜くらいだ」と苦笑いしていた。それを見ていた総裁のご家族や子分たちも笑っていたなぁ。

 結局、最後まで名前を出すことを了承しなかった総裁だが、翌年の墓前祭で、俺にこんなことを言ってきた。

「桜、ちょっと来い。俺の名前もお前のも、ちゃんと刻んであるぞ」

「そうだったんですか?どこにですか?でも、私の名前を一緒に刻むなんてめっそうもない」

「固いことを言うな。名前を刻んであるのは、あそこだから」

 そういって総裁が指差したのは、手水場の屋根。確かにあれも総裁が寄贈したものだが、その屋根に名前を刻んだというのか?

「あの屋根の瓦の裏側に、俺とお前の名前が彫ってあるよ。これで名前もずっと残るだろうよ」

「......」

 これには参ったねぇ。手の届かないところにある瓦の裏に名前を刻んだと言われても、確かめようがない。いや、総裁がここまで言っているのに、疑うなんてできないだろう。俺は今でも、あそこに名前が彫ってあるとは思っていないが、もうそんなことはどうでもいい。総裁の茶目っ気にあふれた態度に、俺は白旗を揚げるしかなかった。

 そんな堀総裁が亡くなって、間もなく20年がたつ。この間も俺は一度も休むことなく、毎年墓前祭に参加している。いや、足腰が動く間は、今後もどんなことがあっても参加するつもりだ。また、総裁の遺志は、息子さんに引き継がれている。総裁のときの墓前祭とは違い、あっち方面の人間が2000人も来るようなことはもうないが、それでも地元の人を含め、毎年数百人の人が墓前に参列しているのだ。

 話はこれで終わらない。総裁が亡くなって10年たったときの墓前祭で、「除幕式があるので、そちらも顔を出してくれ」とお声がかかった。何の除幕式かわからず列席したが、幕が外され、中から出てきた石碑を見て驚いた。そこには、大きく「堀政夫建立」という文字が刻まれているではないか。奉賛会のメンバー全会一致で、総裁の功績を讃えるための石碑を建てることを決めたという。メンバーいわく「堀政夫の名前を、後世まで残さないわけにはいかない」と。

 天国の総裁は、この石碑をどう見ているだろうか。「仕方がないなぁ」と思いながら、笑って見ているかもしれない。

 歴史というものは、さまざまな人の、さまざまな思惑の中で、真実がゆがめられていくものだ。だが、真実を見た者が抱く、「事実を後世に残したい」という気持ちは誰にも止められるものではない。多くの日本人が殉じた太平洋戦争に関する歴史もしかり、堀政夫が心血を注いだ殉国七士廟に関する歴史もしかり、なのだ。

高橋光弥(たかはし・みつや)
元関取・栃桜。現役時代は、行司の軍配に抗議したり、弓取り式で弓を折ったり、キャバレーの社長を務めるなどの破天荒な言動により角界で名を馳せる。漫画「のたり松太郎」のモデルとの説もある。


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