大阪のラップシーンを見つめてきたキーマンに聞く――HIDADDYが語る大阪ラップの変遷と未来

――ふざけた曲のようだが、9枚目のアルバムが『王手』なら、10枚目で“王”と成る、とのことでこのタイトル。一聴した者を楽しませ、設定されたテーマを掘り下げる貪欲さ、リリックに散りばめる奥行きのある曲の作り方には、ベテランの貫禄を感じさせる。

(写真/cherry chill will.)

 大阪のヒップホップ、特に日本語ラップにフォーカスした本特集の場合、その歴史について語ってもらう人は誰が相応しいか? と考えると、真っ先に浮かぶキーマンは、やはりHIDADDYだろう。

 韻踏合組合のメンバーとして2000年代以降の大阪シーンを牽引し、支えてきたラッパーであり、WILYWNKAのインタビューでもたびたび登場した一二三屋の店主でもある。同地のシーンを長年支えてきた彼は、ラッパー活動開始以前の時期も含め、大阪のヒップホップを現場・ストリートから定点観測してきた、数少ない生き証人のひとりだ。そんなHIDADDYが大阪の現場に出入りするようになった90年代中盤から近年まで――かなり駆け足、かつ大雑把になってしまうが――彼の発言を交えて振り返ってみたい。

 日本語ラップという表現方法が登場したのは1980年代のことだが、“日本語ラップシーン”が形成され、定着していったのは90年代中盤以降のこと。しかし大阪に限らず、当時はまだ作品をリリースできる機会に恵まれたアーティストはごく少数であり、そのほとんどが東京を拠点に活動していたアーティストたちだった。

 そんな中、80年代後半から大阪のクラブ・シーンでヒップホップDJとして活動し、ヒップホップの啓蒙や若手のフックアップをしていたパイオニアがLOW DAMAGEだ。DJ TANKOとDJ KENSAW(16年に逝去)らを中心としたDJクルーだが、東京の日本語ラップシーンの盛り上がりに呼応するように、彼らも大阪/関西のラッパーたちと共にシーンを盛り上げていた。DJ KENSAWがトラックを手がけ、OWL NITE FOUNDATION'Z名義で発表された「OWL NITE」(97年)は、90年代の大阪ヒップホップを代表するクラシック曲だ。

 95年に東京でリリースされたLAMP EYE「証言」の西からの回答ともいえる楽曲には、DESPERADO/RYUZO(MAGUMA MC'S)/WORD SWINGAZら、当時の大阪シーンでしのぎを削っていた若手ラッパーたちが参加。その熱量とクオリティは、大阪以外の地域の日本語ラップ・ヘッズを大阪に注目させる大きな契機となった。

「当時の大阪には、まだ大きいイベントがなかったんです。小さいイベントでKENSAWさんたちが回してて、ラッパーが集まってきたらライブが始まる、みたいな感じでした。『BLACK NIGHT』という伝説のイベントがあって、夜中のいい時間になったらオープンマイクが始まるんですよ。そのオープンマイクでは、RYUZO君や茂千代(DESPERADO)といった人たちがマイクを回していた。そんな姿を見て、俺もラップをやりたくなったんです。

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