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哲学者・萱野稔人の「"超"哲学入門」第42回

【哲学入門】権力には三つの形があり、そのどれもが「人の群れ」を管理する技術の違いに対応している。

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(写真/永峰拓也)

『ミシェル・フーコー講義集成〈7〉安全・領土・人口(コレージュ・ド・フランス講義 1977・1978年度)』

 ミシェル・フーコー(高桑和巳/訳)/筑摩書房/6500円+税
1977~78年に行われたフランス国立高等教育機関コレージュ・ド・フランスにおける講義の記録。国家の権力行使が領土支配から人口管理へと移行していく推移をたどり、フーコーならではの広い射程で権力のメカニズムを論じる。

『ミシェル・フーコー講義集成〈7〉』より引用
主権は領土の境界内で行使され、規律は諸個人の身体に行使され、そして最後に安全は人口全体に行使される、と言えるかもしれません。領土の境界、諸個人の身体、人口全体というわけです。まあ、そうなのですが……それではまずい。〔中略〕主権が本質的に領土内に書きこまれ機能するものであるとしても、〔中略〕事実上は主権が実際的・現実的・日常的にどのように展開され行使されているかを見れば、そこで示されるのはもちろんつねに人の群れなのです。〔中略〕規律もまた、もちろん諸個人の身体に行使されるものではありますが、私は、じつは規律において個人がいかに規律の行使される第一の与件ではないかを示そうとしたことがあります。ある人の群れと、その群れを出発点として獲得すべき目的・目標・結果、これらがあってはじめて規律は存在する。学校・軍・刑罰における規律も、工房における規律や労働者に対する規律もすべて、人の群れを管理・組織するやりかた〔中略〕なのです。個人とは、規律を打ち立てる出発点となる第一の資材であるというよりはるかに、規律が人の群れを切りさばくやりかたなのです。規律とは、人の群れがあるところで、これを個人化する方法なのです。〔省略〕つまり結局、主権も規律も、そしてもちろん安全も、人の群れと関わりをもたざるをえない。

 前回は、ミシェル・フーコーの「生−権力」という概念について考察しました。「生−権力」とは、フーコーが1976年の著作『性の歴史1 知への意志』のなかで提起した概念です。その概念によってフーコーは、それまでの一般的な権力概念では理解しきれない、新しい権力のあり方を指し示そうとしました。

 まず、それまでの一般的な権力概念では、「権力」といえば「痛い目にあいたくなければ俺のいうことをきけ」と命じてくるような力のことが想定されていました。「刑務所にいきたくなければ(死刑になりたくなければ)法に従え」と迫ってくる公権力なんて、その典型ですね。ただ、こうした権力はいたるところに存在していて、たとえば大学教員が学生たちに「単位(及第点)がほしければ(俺のいうとおり)レポートを書いてこい」と指示するのも同じタイプの権力です。

 フーコーが提起する「生−権力」の概念は、こうした権力の概念とはまったく異なります。フーコーは生−権力には二つの軸があると説明していました。一つは「規律」の軸です。これはフーコーが『監獄の誕生』のなかで分析した権力のあり方で、おもに監視や評価、たえざる訓練などによって個人を規律ある存在へとつくりあげていく権力のあり方を指しています。もう一つは「調整」の軸です。これは、人びとの活動を一つのまとまり(集合体)としてとらえ、それを特定の指標によって数量化し、その数量を増やしたり減らしたりするような手立てを講じることで、人びとの集合体をより望ましいものへと改善していこうという実践をあらわしています。GDPを伸ばそうとしたり、出生率をあげようとしたり、貧困率をさげようとしたりする実践はすべてここに含まれます。

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