サイゾーpremium  > 特集2  > 【アートとしての裸】と日本人

――明治維新を迎え、新政府は欧米列強に追いつこうと躍起になる。鎖国が解かれ海外から「アートとしてのヌード」が徐々に流入してはきたが……

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(写真/三浦太輔・go relax E more)
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黒田清輝がパリを去る直前の1893(明治26)年に描かれた作品『朝妝』。現物は焼失している。

 明治期に入ると、美術においてもエロ業界においても欧米の影響が色濃く反映されるようになる。黒田清輝がフランス留学中に全裸のフランス人女性を描いた『朝妝』は、1895年に開催された内国勧業博覧会(近代化促進のための展覧会)で、「芸術かわいせつか」と大論争になった。黒田が描いた裸は、春画に見慣れた当時の日本人にとっては、生々しく肉感的に見えたことだろう。

 エロ業界においては、明治初期から「横浜写真」という、訪日外国人向けにみやげものとして販売された絵ハガキのような写真のいちジャンルとして、エロ写真が発達していく。これに関して、写真史研究者の調文明氏はこう語る。

「横浜写真のヌード写真は、和室で撮影されたものがほとんどです。外国人のためにエキゾティシズムを強調するという意味と、日常的な雰囲気を演出することで猥褻性をオブラートに包むという意味とがあったように思われます。当時、西洋画の流入や洋画家の台頭により、ヌードモデルという職業が出現。絵画のヌードモデルがそのまま写真のヌードモデルになることもあり、日本人の大衆向けの露骨な写真も撮られるようになりました。こうしたエロ写真はポストカードや生写真のような形で温泉地や繁華街の路地裏などでこっそりと売られ、一部は戦後になっても続いていたようです」

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