サイゾーpremium  > 特集  > 芸能ゴシップ  > GSブームが起こした芸能界の大きな確変【1】/【グループ・サウンズ】から見る芸能界

――60年代後半にブームとなったグループ・サウンズ(GS)。スパイダース、タイガース、テンプターズといったバンドが人気を博し、堺正章、沢田研二、萩原健一らが輩出された一方、スパイダースのドラマー・田邊昭知は芸能界のドンとして君臨するまでに。あの時代、何か“変革”が起きたのか? 芸能史におけるGSを再考!

GSと田邊社長が築いた芸能システム――一介のドラマーが芸能界のドンへ!グループ・サウンズから見る芸能史の画像1
【1】浜口庫之助が作詞・作曲したスパイダースのシングル『夕陽が泣いている/チビのジュリー』(フィリップス/66年)は、公称120万枚を超えるセールスを記録。【2】ヴィレッジ・シンガーズのシングル『亜麻色の髪の乙女』(日本コロムビア/68年)は橋本淳が作詞、すぎやまこういちが作曲した。B面の「瞳をとじて」は同じく橋本淳が作詞、筒美京平が作曲。

 去る5月2日、グループ・サウンズ(以下、GS)を代表するバンド、ザ・スパイダースの元メンバーでソロとしても長年活動し、2017年3月にがんで亡くなったミュージシャン・ムッシュかまやつのお別れの会が営まれた。この会で堺正章や井上順といった元スパイダースの面々が再結成ライブを披露したことが話題となったが、ステージ後方でドラムを叩いていた人物がいる。彼の名は田邊昭知。タモリや研ナオコ、永作博美、堺雅人らを擁する大手芸能プロダクション・田辺エージェンシーの社長である。

 田邊といえば、16年の夏目三久の妊娠“誤報”騒動やSMAPの解散騒動でその名前がクローズアップされるなど、バーニングプロダクション社長の周防郁雄とともに“芸能界のドン”と称されるが、彼がGS出身であることは今ではあまり語られない。しかし、大手レコード会社の社員A氏は「GSは日本の芸能界における大きな変革であり、このGSを起点に現在の“田辺帝国”は築かれたのではないか」と語る。本稿では、GSというムーブメントが芸能史にどのように位置づけられ、そこで田邊はいかにしてのし上がったのか、検証したい。

 その前に、田邊の経歴をざっと見ておこう。1938年、東京に生まれた彼は、50年代に米軍キャンプに出入りしながらドラムを始めた。ホリプロ創業者の堀威夫が57年に結成したロカビリー・バンドのスウィング・ウエストを経て、61年に「田辺昭知とザ・スパイダース」を結成。その後、かまやつ、堺、井上らが加わり66年にバンド名を「ザ・スパイダース」に変更、ホリプロから独立して芸能プロ「スパイダクション」を設立した。71年にスパイダースを解散し、73年、スパイダクションの規模を拡大して「田辺エージェンシー」に改称。以降、タモリらを見いだし、芸能界における同社の地位を盤石のものとしている。

 本題に入るが、そもそもGSとは、66年6月のザ・ビートルズ来日を機に大流行したボーカル入りのエレキギター・バンドのこと。66年3月にジャッキー吉川とブルー・コメッツの「青い瞳」、9月にスパイダースの「夕陽が泣いている」がヒットすると、次いでザ・タイガースやザ・テンプターズ、オックスといったバンドが続々とデビューした。だが、69年にはブームは下火になり、71年1月、トップ・グループのタイガース解散をもってGS時代は幕を閉じたといわれる。

 かようにGSは一過性のブームだったが、そこからさまざまなタレントも誕生。先述の堺や井上、かまやつのほか、「ジュリー」こと沢田研二と岸部一徳、岸部四郎(いずれもタイガース)、「ショーケン」こと萩原健一(テンプターズ)、鈴木ヒロミツ(ザ・モップス)、寺尾聰(ザ・サベージ)、尾崎紀世彦(ザ・ワンダース)などだ。ただ、バンド解散後にソロ歌手や俳優として活躍した者はいるが、芸能プロの社長として、いわば“裏方”として大成したのは田邊だけと言っていい。

田邊昭知が“発見”した堺正章、萩原健一、タモリ

 では、レコード会社社員A氏の言うGSによる“変革”とは何か? それは、“原盤制作”ビジネスの本格化だという。

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