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高山真が読む今月のサイゾー/オトコとオンナとアイドルと【11】

フィギュアスケート界を支えた小塚崇彦さんが、私に教えてくれたこと

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――女性向けメディアを中心に活躍するエッセイスト・高山真が、世にあふれる"アイドル"を考察する。超刺激的カルチャー論。

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小塚崇彦 著「ステップ バイ ステップ」(文藝春秋)

 フィギュアスケートの日本男子を長年にわたって牽引してきたひとり、小塚崇彦さんが引退しました。すでに一般人になった方ですので、「さん」という敬称をつけさせていただきますが、選手時代の小塚さんを語るときは「小塚崇彦」という表記にさせていただくことをご了承ください。

 私がはじめて小塚崇彦の演技をガッツリ見たのは、2004年の全日本選手権のフリーでした。当時15歳だった小塚のスケーティングに狂喜したのをよく覚えています。エッジがまったくブレないというか、揺れないのです。スケート靴は、非常に薄い2枚の刃(エッジ)で支えられているだけ。そんな不安定な靴で滑るのですから、「安定してまっすぐ滑っている」ように見えても、ごくごくわずかではあるものの、エッジが揺れているのが当たり前です。その「揺れ」が、少なくとも客席からはまったく見えなかった。「ついに日本にもトッド・エルドリッジが出てきた!」と私は心の中で叫び、感嘆のため息をもらしたものです。

 1996年の世界チャンピオンであるトッド・エルドリッジのスケーティングは、「“端正”とか“精緻”という言葉を形にしたら、こうなる」と言えるほど正確無比なものでした。上体の動きは非常にシンプルなのに、リンクには「水際立った」としか言いようのない、鮮やかなトレース(跡)が描かれていました。本来「フィギュアスケート」は、その言葉の意味どおり「氷の上に、その滑りで図形(フィギュア)を描くこと」で順位を競うもの。上体をなるべく動かすことなく、エッジワークだけでミリ単位の(もしかしたらそれよりさらに細かい)正確さを競うのが、メイン。コンパルソリー(規定演技)という名前がついていました。フィギュアスケートは、なんというか「職人気質」なスポーツだったわけです。そのことを、1990年代の男子選手でもっともはっきりと、愚直なまでに体で表現していたのはエルドリッジだったと思います。

 2000年代に入り、「あ、この選手も、そうだ」と初めて感じさせてくれたのが、15歳の日本人選手・小塚崇彦でした。ジュニアでありながら、すでにクラシカル。スケーティングのレジェンド・佐藤有香の言葉を借りるなら「ジャンプ、ジャンプに追い立てられて、スケートを滑るということが、いいかげんになっている傾向がある」なかで、それは本当に驚くべきことだったのです。

 スケーティングが美しい選手の演技は、私にとって、多少のジャンプのミスがあってもそれが大きな問題にはならなくなります。たとえば男子のフリーは4分30秒、その中でジャンプの時間は、着氷した後にエッジが流れている時間を含めても、全部まとめて1分もないでしょう。つまり、残りの3分30秒以上は「スケーティングを見ている」時間ということ。ですから、スケーティングが美しい選手の演技は、私にとって「見ている時間のほとんどが、楽しい」という選手になるわけです。小塚崇彦というスケーターは、私にとって、パトリック・チャンと並んで「非常に若いときから、見ている時間のほとんどが、楽しい」という選手の筆頭格とも言える存在でした。

 2011年の世界選手権、小塚のフリーは、すべてのジャンプが完璧に決まり、「見ている時間のすべてが、1秒の隙間もなく楽しい」という、密度の高い芸術作品になりました。1本目のトリプルアクセルの着氷の、見事なフロー(流れ)。イーグルで、フォアエッジに乗った右足だけをバックエッジに切り替えても揺れない態勢、落ちないスピード…そしてそこからすぐに、小塚本来の回転軸とは逆の、時計回りのターンをシャープに挟み込む安定感。右回り、左回りのターンをバランスよく入れたステップシークエンス、そしてその直後の、たった二、三蹴りでトップスピードに乗る技術…。もともとの端正なスケーティングに、キレや雄大さが加わった、「進化型」の魅力を心ゆくまで堪能したものです。その「進化」をさらに明確なものとした、2012年のスケートアメリカのフリーも、私にとっては忘れられません。

 ところで…。それなりに長くフィギュアスケートを見続けてきた私の脳内には、「1位・2位だったスケーターよりもなぜか長く記憶に残ってしまう…。そんな演技をした、第3位の選手」というアーカイブがあります。誤解のないように申し添えますと、1位と2位の選手がその順位になったのは心から納得しています。

 たとえば、長野オリンピックの男女シングル。男子の優勝者、イリヤ・クーリックの、ジャンプのクオリティとベーシックなスケーティングスキルは非の打ちどころのないものでした。個人的には前年のショートプログラム『ファウスト』(ジャパンオープンでの演技がマイベスト)とフリー『ロミオとジュリエット』のほうが、その密度の濃さゆえに好みなのですが、それでも、長野のフリー、2回目のトリプルアクセルを美しく着氷した後のサーキュラーステップで、ピアノの旋律にピッタリ合わせてターンしながら、しかもグイグイ加速していく様子は何度見てもうなるばかりです。2位のエルヴィス・ストイコも、ケガの影響かフリーで4回転ジャンプが入らなかったことと、トリプルループで少々ランディングが詰まったのを除けば、残りのジャンプをきれいに着氷して意地を見せました。

 しかし、そのふたりよりも私の記憶に強烈に残っているのは、ゆがみそうになるジャンプの軸や着氷時のエッジの乱れを全霊で抑え込みながら、鮮やかすぎるダルタニアンを演じた銅メダリストのフィリップ・キャンデロロなのです。

 女子も、優勝したタラ・リピンスキーは、その勢いや爆発力のままに、高難度ジャンプを詰め込んだプログラムを滑り切りました。銀メダリストのミシェル・クワンは、「スピードとフローを備えた、同年の全米選手権くらいの出来栄えなら、リピンスキーと順位が入れ替わっていたかも」という思いもありますが、それでも「究極とも言えるエフォートレス(まったく力が入っていないように見える)スケーティング」を見せてくれました。

 ふたりとも、3位の陳露よりも上だということを充分に知っています。陳露のフリップジャンプはステップアウト、後半のジャンプはほぼすべてが回転不足でした。しかしそうした「足りなさ」をほとんど執念でカバーし、「今世で結ばれなかった恋人同士が蝶に姿を変え、天国で出会う」という物語世界を演じきった陳露の演技のほうを、私は先に思い出すのです。

 そんな「心に残る3位選手のアーカイブ」のいちばん新しい場所に、いちばん大きな存在感をもって保存されたのが、2014年の全日本選手権での小塚崇彦のフリープログラムなのです。

 1位の羽生結弦、2位の宇野昌磨の演技は素晴らしいものでした。ふたりとも、減点対象になるジャンプは1つだけで、それ以外のジャンプのクオリティは申し分ないものでした。羽生結弦の、「きっちりとした体重移動によるエッジワーク」を盛り盛りに入れながら、しかし体重をまるで感じさせないエフォートレス・スケーティング(女子よりも確実に10キロ以上は体重がある男子選手で、これができるのは驚異的、というか、ほとんど神秘です)と、それをプログラム全編にわたって繰り広げる精度の高さ。そして、宇野昌磨のエッジワークと上体の振付の濃密な一体感(足元より先に上体のほうが大きく激しく動いて、その勢いでエッジがついてくる…そんな選手がどうしても多くなるなかで、ジュニアから上がったばかりの選手がこれをモノにしているのが素晴らしい)から生まれる、実年齢をはるかに超える成熟した演技…。どちらも高い評価を得て当然と断言できるものでした。

 3位の小塚崇彦は、ケガが続いて決してフィジカルが万全とは言えないなか、2011年の完璧だった世界選手権を超えるジャンプ構成で演技に臨みました。そして、長野オリンピックのキャンデロロや陳露がそうだったように、すべてのジャンプを全霊で抑え込んでいきました。両足着氷もありました。態勢が乱れた場面もありました。しかし、そんなシーンのたびに、拳に込めた私の力は強くなっていきました。

 滑らかで大きく、かつ鋭いステップ。イーグルの深いエッジ。そして、イーグルのようなムーヴズインザフィールドと、エッジを動かすからこそ成り立つステップを、時間的にも動作的にもまったく「間」を置かずにつなげてみせるテクニック。加えて、音楽との融合ぶり…。アンドレア・ボッチェリの『イオ・チ・サロ』(邦題『これからも僕はいるよ』)が、何か「小塚のために作られた曲」と錯覚してしまうほどに、もう…。

「判官びいき」と感じる方もいるかもしれないことは承知のうえですが、全日本選手権を観戦しながら涙を流したのは、私にとって初めての経験でした。

 芸術家が最後に残した作品を「スワン・ソング」と言います。白鳥は命が消える直前、もっとも美しい声で鳴く…。そんな言い伝えから生まれた言葉だそうです。私にとって、『イオ・チ・サロ』は間違いなく「小塚崇彦のスワン・ソング」です。たぶんこの先も、ずっと忘れることはないでしょう。

 現在、小塚さんは、トヨタ自動車の社員として、新たな道を進まれています。華やかな世界ではなく、堅実で実直な世界へ。なんというか、小塚さんらしいなあ、と。

 スケーティングの能力は、1日1日の、地味にも感じられるような積み重ねによってのみ上達すると聞いたことがあります。コンパルソリーがあった時代を知っている人なら、コンパルソリーの競技風景が「観客に見せることを前提としていないため、非常に地味」であることを知っています。小塚さんのスケーティングは、「地味なことを実直に積み重ねていった先に、何かがある」ということを、誰よりも雄弁に伝える力がありました。そういう大切なことを、「マイ・アイドル」のひとりから教えてもらったのは、とても幸せなことだなあと思います。

 確かに、「もう小塚さんのスケーティングが見られない」という寂しさはあります。しかし、このように「スケーティング」と「生き様」がピッタリ一致するのを見せられたら、それはファンとしては喜ぶべきことなのでしょう。「自分が目をつけた人やモノに、自分がそれに目をつけた理由に、間違いがなかった」ということでもあるのですから。

 ただ…。

 その実直な歩みの先に、コーチなりプロスケーターなりの展開があるかもしれない。そんな望みを持ち続けることだけは、ファンのわがままとして許していただきたい。万が一、『これからも僕はいるよ』という「スワン・ソング」がもう一度響くことがあるのなら、その時はもう一度泣こうと思っています。

高山真(たかやままこと)
男女に対する鋭い観察眼と考察を、愛情あふれる筆致で表現するエッセイスト。女性ファッション誌『Oggi』で10年以上にわたって読者からのお悩みに答える長寿連載が、『恋愛がらみ。 ~不器用スパイラルからの脱出法、教えちゃうわ』(小学館)という題名で書籍化。人気コラムニスト、ジェーン・スー氏の「知的ゲイは悩める女の共有財産」との絶賛どおり、恋や人生に悩む多くの女性から熱烈な支持を集める。現在、「マイナビウーマン」というサイトでも、期間限定の連載『マコトねえさんの恋愛相談バー』を執筆中。

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