(写真/有高唯之)
年末の風物詩となったM-1グランプリが近づく季節。今年、優勝が期待されるコンビとして必ず名前が挙がるのが、一昨年、昨年と決勝に駒を進めたナイツだ。そのナイツが撮影で浅草の公道に姿を現すと、地元民から観光客まで、老若男女の視線が彼らに集中した。浅草寺の側門の下では、「つちやさーん!」「はなわさーん!」と手を振る修学旅行生の姿も。今でも寄席に出続けるナイツの、浅草における支持は絶大だ。
「でもあの頃は、暗い気分でここにいましたけどね」(塙)
2人が振り返るのは8年前のこと。大学の落研の先輩と後輩で結成されたナイツは、テレビタレントと寄席芸人という2本の柱を持つマセキ芸能社に所属する。そこで事務所の会長から打ち出されたのは、ナイツを寄席芸人として育てるという方針だった。周囲から「その若さで寄席なんて、もう終わったな」と言われ、テレビのラインに乗りたかった若者は目の前が真っ暗に。その後漫才協会に所属して活動の場は与えられるも、不安のぬぐえない日々が続いた。
土屋 「遠回りしてる気分は、めちゃくちゃありましたよ。オリエンタルラジオが武勇伝ネタでブワーッと出てきた時なんて、『俺ら何やってんだろう?』って」
塙 「一番きつい時期でしたね。『エンタの神様』(日本テレビ)のネタ見せに行って、『普段やってる漫才と違うネタを持ってきて』と言われたんです。でもそんなこと考える脳もないので、内海桂子師匠に教わった南京玉すだれをそのままやったら、『うちの番組、見たことあります?』って(笑)」
土屋 「『エンタ』なら、なんとかしてくれると思ったんです(笑)」
星の数ほどいる若手芸人の一組として埋もれてしまいかねないそんな時期、ナイツは何を信じていたのだろうか?
塙 「売れるのには、むしろ若いのに演芸のにおいがする方向を突き詰めるしかないんじゃないかと。そう考えるようになったら、あんなに嫌だった浅草に抵抗がなくなって、『もっと古い芸人がやるような仕事来い!』と前向きになりましたね」
果たして分岐点は2007年に訪れる。演芸の世界により深く染まっていこうと腹を固めた頃、事務所の会長がナイツを落語芸術協会に加えたいと提案したのだ。月に10日の主催興行を抱える漫才協会に対し、落語芸術協会は1年365日寄席のスケジュールを押さえている。思い描いていた計画に、「チャンスが来た!」と拳を固めた。その波にしがみつくと、出番がそれまでの約10倍に増え、気がつけば年間400近い舞台に立っていた。
土屋 「たくさん漫才をするようになって、呼吸が変わったんですよね。初めて本当の漫才の掛け合いになった」
塙 「寄席にいると、ウケてる落語家さんの間がいいことがわかってくるんですよ。あれは勉強になりました。僕らが得意とする言い間違いも、結局、間の漫才なんで」
その結果、実力を蓄えたナイツは、言い間違い、時事ネタ、野球という3本の太い柱を確立。一躍、M-1でも決勝に進み、売れっ子への道を踏み出した。
「どの漫才も、中身のネタが最新情報に入れ替え可能な、いわばハードディスクみたいなものなので、ずっと続けていくことができるんです。これは一生安泰なんじゃないですか?」と塙は笑うが、ではラストイヤーとなるM-1では、どの漫才で勝負するのだろうか?
塙 「M-1に関しては100%、守りに入ったら終わり。僕らでいうと言い間違い漫才をやることは守りでしかないので、もっとバカバカしい漫才をもっていきたい。それで決勝に進んで審査員の(島田)紳助さんと松本(人志)さんが『こいつらオモロいな』という顔をしたら……」
土屋 「最下位でもいいですよ」
塙 「それだけで一生食っていけますから(笑)」
撮影を終えて、ナイツは浅草の人込みの中に消えていった。今年のM-1でどんな結果が待っていようと、2人はこの街の舞台に立ち続けている。
(文/鈴木 工)
ナイツ
塙宣之(はなわのぶゆき:1978年、千葉県生まれ、ボケ担当、写真左)、土屋伸之(つちやのぶゆき:1978年、東京都生まれ、つっこみ担当、写真右)の2人による漫才コンビ。マセキ芸能社所属。08年の『第8回M-1グランプリ』で見せた、塙がヤホー(Yahoo!の間違い)で調べてきた事象を言い間違えてボケる"ヤホー漫才"で脚光を浴びる。
『ナイツ独演会』
今年9月に東京・国立演芸場にて行われた、ナイツ独演会の模様を収録。M-1グランプリやほかのテレビではみられない、長尺の漫才に2人の笑いの真骨頂がみられるほか、三遊亭小遊三など、浅草の演芸の先輩後輩をゲストで呼ぶなど盛りだくさん。副音声では、 本人たちによる"禁断の"漫才解説が楽しめるなど豪華な内容となっている。
発売/コンテンツリーグ 販売/アニプレックス 価格/3990円(税込) 発売日/12月29日