作家・三浦綾子も実弾入り射撃訓練を経験 女学生を「兵士化」した戦時下のハードな軍事教練

(写真/Getty Images)

2015年にノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチによるノンフィクション『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)や、同作に触発されて書かれた逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房)では、第2次大戦で従軍し、男性とともに前線で戦ったソ連の女性たちが描かれている。

一方の日本では、女性に対しては良妻賢母教育がなされ、15年戦争下(1931~45年の満州事変・日中戦争・太平洋戦争)でも銃後の守りに就いていただけ――と思われがちだが、佐々木陽子著『戦時下女学生の軍事教練 女子通信手と「身体の兵士化」』(青弓社)では、高等女学校(高女)の女学生たちが行軍、分列行進、実弾入りの射撃訓練といった軍事教練を行い、軍属の通信手として従事していたことが、史料と当事者たちへの聞き取りから明かされていく。社会学者の佐々木氏に高女生の「兵士化」がいかになされたのかを訊いた。

生徒が死んでもおかしくない訓練

佐々木陽子著戦時下女学生の軍事教練 女子通信手と「身体の兵士化」(青弓社)

――なぜ、「良妻賢母」教育をされていた高女生に軍事教練がなされていたのでしょうか。

佐々木 日本とドイツは女性(殊に既婚女性)を動員することには戦争末期まで消極的な国で、「男は前線、女は銃後」という性別役割を打ち出していました。ですから、文部省もそういう訓練を女子には期待していませんでした。

今ではなかなか想像がつきづらいですが、「身体を変える」のは大変なことです。明治に入って日本で徴兵が始まったとき、ほとんどの日本人男性は農民ですから、「何時何分集合」と言われても時間感覚がないためできなかったし、走りはナンバ走り、歩きはすり足で、行進もうまくできない。それを崩して国民兵を作っていくプロセスがありました。

一方の女性はというと、もともと体育は小学校しかなかったのが、後から高等女学校にも入ってきました。小学校でさえ「女子に股を広げさせるな」と親からクレームが入り、大正に入って「体育」に「教練」という科目は入るものの、行進にしても「女はあまり足を上げるな」と指導されていました。女性に男性兵士がするような身体性を求めることには、抵抗が強い人々が存在していた時代が長かった。

ところが、地域や高女ごとに教練がエスカレートしていきます。なぜかといえば、ひとつには、忠君愛国をアピールするためです。例えば、ミッションスクールでは「私たちは敵国の宗教を教えているけれども、日本国に忠実なんです」と示すためですね。ただ、当初はあくまで擬態としてやっていたはずが、同調圧力の中で軍国主義的な価値観が内面化され、内容もエスカレートしていきます。当時の炭俵(約15キロ)の重さの砂を袋に入れて背負わせて、歩かせたり走らせたりしていた高女もあります。

もうひとつの理由としては、戦局が逼迫してきて男性がどんどんいなくなると、なりふりかまっていられなくなった。そこで、テキパキ動ける高女生が狩り出されるようになる。15年戦争下でも、当初は女性に求められていたのは軍人を援護する「奉仕」活動で、兵隊さんが使う慰安袋を作って、それに手紙を付けるようなことを宿題として課した女学校もありました。しかし、戦局が悪化していくと、単なる「奉仕」ではなく「義務としての動員」に変わる。最初は軍需工場で数日働く程度のはずが、どんどん延長されて深夜労働までもが求められるようになり、工場でも軍人が時間のあるときに分列行進などの教練をした事例もありました。農村では農家を手伝い、土木工事や農地開拓に狩り出され、身体から「一億玉砕」の精神が注入されていく。浜松高女に通われていた方たちは手旗信号を今でも覚えていらっしゃいました。そして、1945年5月には学校が解体され、6月下旬には「女でも米軍が上陸したら民兵として戦え」と言われるに至る――これは構想止まりで終わったわけですが。

――たとえ射撃訓練はしていても、『戦争は女の顔をしていない』で描かれているソ連のように女性が実際に兵士になって前線に行ったケースはないわけですよね?

佐々木 それはありません。ソ連はロシア革命の後、男女に同じ教育を徹底させた結果、女性の医師とパイロットが増えていました。そして、ナチスドイツに攻め入られて国民の愛国心が燃え上がったときに、戦争遂行のための必要な戦力として女性に動員がかけられ、それに応えられた特殊な国でした。

一方の日本は、男性だけの軍隊でアジアに攻め行って当初は「勝った勝った」と浮かれていたわけですから、女性動員の必要性をギリギリまで感じていなかった。ですから、高女生の軍事教練はゲーム感覚といったら言いすぎかもしれませんが、興味を引く訓練だと思われていたようです。当時、実弾射撃訓練をを経験した作家の三浦綾子も「面白そうだと思った」と言っています。もちろん、だからこそ「なぜやらなくてもいいことをさせるの?」という疑問が高女生にも家庭や地域の人からも40年代初めまではあったわけです。

――一律にハードな教練をしていたわけではなく、軍都にある学校か、地理的に海沿いか内陸か(海沿いのほうが攻め込まれたときの緊迫感があったので激しかった)、校長が国策重視か自由主義的かによって、あるいはどれだけ戦局が逼迫していたかでも教練の内容にグラデーションがあったそうですね。

佐々木 そうです。聞き取りをしても「教練? やったかな」とお話された方もいらっしゃいました。ただ、軍事教練を積極的にやった学校の校長は出世していくんですね。国策型か否かが評価のバロメータになっていて、自由主義的な校長は左遷された事例もあったようです。それでも都立深川高女のように自由主義的に女子にも学問をと、がんばっていた学校もありましたが。

――『戦時下女学生の軍事教練』には高女生が雪中行軍をしている写真も掲載されていましたが、生徒が死んでもおかしくないレベルの訓練をしている学校があることに驚きました。

佐々木 沖縄では夜中の1時から15時間歩かせるとか、千葉県では60キロも行軍させる高女もありました。しかも、クラス対抗で競争をさせ、脱落すると成績が悪くなりますから、みんな相当な無理をして、学校に着いた途端にバタバタ倒れたとの話もありました。当然、「女の子にここまでしなくても」との家庭から反対の声もありましたが、当時は校長の力が強く、教師の人事権も掌握していましたから、先生方も右へならえで校長の方針に従っている学校が少なくなく、押し切られていたんです。

国家から強要された「女らしさ」と「身体の男性化」

――軍事教練と戦局悪化によって高女生の「身体の男性化」「身体の労働者化」「労働の男性化」が進行していったそうですが、それは高女に対して世の中がもともと求めていたものとはかけ離れているわけですよね。当時の高女生は働く女性(職業婦人)と間違えられることすら嫌がっていたくらいですから。

佐々木 大正末期頃の鹿児島の婦人会の集合写真を見ると、半数以上がハンカチを手の上に載せています――手も足と同様に「人様に見せるのは、はしたない」と言われていたそうです。それくらい「女は女らしく」という考えが強かった。40年代初めまでは、軍事教練をしても黒いストッキングを履いています。ところが、あれよあれよという間にモンペになり、物資がなくなると靴下も履かずに素足に下駄履きで堂々と歩くように変化していく。

明治期でも海外から帰国した政府高官の中には、欧米人に比べて日本女性の貧弱さを見て、「こんな痩せ細った女から強い兵隊が生まれるだろうか」と女性も身体を鍛えることを求める向きもあったそうです。

つまり高女生には、女としての役割を要求しながら、同時に男性的な身体性をも求めるようにもなっていった。その綱引きがなされていたわけです。ただ、軍事教練を嫌がっていた高女生もいた一方で、それまで「静かに歩け」などと抑圧されていたのが、股を広げて歩けることを身体の解放と受け取った方もいたのが興味深いところです。

――通信手になった高女生本人たちは、さほど疑問や違和感を持っておらず、大半が「充実していた」「兵隊さんは優しかった」と回顧しているという話が印象的でした。

佐々木 軍関係の施設は、爆撃の危険性はあるものの木造の校舎と比べると頑丈ですから、そちらのほうが安全だという意識もあり、親も軍関係に入っているほうが安心だった。給与も高く、食事もおいしいものが提供されたそうです。みなさん献立をよく覚えているんです。「甘いおしるこが出た」とかね。逆に言えば、家庭の食事がいかに貧しかったかということですが。

――戦時中の高女を取り巻く歴史の流れから考えるべき、現在の私たちに対する示唆には、どんなものがありますか。

佐々木 ひとつは同調圧力の問題です。戦争が始まると本音や実感が禁句になる。愛おしいいものとして自分や家族の生命をとらえるのは普通の感覚ですが、戦争に異を唱えれば「徴兵逃れは犯罪」「非国民」にされていく。もうひとつは、変化の速度の急激さです。ほんの数年前まで「足を見せるな」「おしとやかにしろ」と言われていた女性たちが、ゲタ履きで活動的に振る舞うことを要求されるようになる。つい先日も防衛費の拡大が1週間程度であっという間に決まってしまいましたが、戦前の動きを見ていると「まさか」と思うことまで弾みが付き始めれば一気に進んでしまう恐ろしさを感じます。

ただ、同調圧力や空気の転換の中でも、軍舎化を断る校長や、軍需工場に動員された女学生たちを軍に逆らって故郷に帰した先生もいました。そうした小さな抵抗から学ぶことも大きいと思っています。

(取材・文/飯田一史)

佐々木陽子(ささき・ようこ)
1952年、東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士後期課程単位取得退学、博士(学術)。元・鹿児島国際大学福祉社会学部教授。専攻は社会学、ジェンダー論。著書に『老いと死をめぐる現代の習俗――棄老・ぽっくり信仰・お供え・墓参り』(勁草書房)、『総力戦と女性兵士』(青弓社)、編著に『枕崎 女たちの生活史――ジェンダー視点からみる暮らし、習俗、政治』(明石書店)、『兵役拒否』(青弓社)など。

飯田一史(いいだ・いちし)
マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャーや出版産業、子どもの本について取材&調査して解説・分析。単著に『ライトノベル・クロニクル2010-2021』(Pヴァイン)、『いま、子どもの本が売れる理由』(筑摩選書)、『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの?』(星海社新書)、『ウェブ小説の衝撃』(筑摩書房)など。「Yahoo!個人」「リアルサウンドブック」「現代ビジネス」「新文化」などに寄稿。単行本の聞き書き構成やコンサル業も。

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