友情とは子どもとヤクザにしか存在しないのか 反社会性と友情の関係

SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。

『泥棒日記』(新潮文庫)

 泥棒作家として名高いフランスの文豪、ジャン・ジュネは、その著書「泥棒日記」の中で、

「ヤクザというのは、要するに子どもなのだ」

 という一文を書き残している。彼自身がその長い刑務所生活の中で出会ったマフィアの男たちは、どれもこれも、成熟には遠い人間だったというのだ。

 その点、泥棒は違う……と、ジュネの奇天烈な自慢話は続くわけなのだが、その話はまた別の主題になるので、ここでは触れない。大切なのは、「ヤクザは子どもだ」というジュネの観察だ。

 もうひとつ、ヤクザについて語られた言葉で、私が印象深く記憶しているのは、『仁義なき戦い』の原作者である飯干晃一が、その著書(タイトルは失念)の中で、繰り返し述べていたものだ。

「ヤクザは男の理念型だ」

 と、飯干晃一は言っている。

 この2つの言葉を鍵に、今回は、「友だちとヤンキー」について考えてみたい。

 結論を先に述べれば、私は、友だちというのは「ヤンキー」ないしは「子ども」の世界の特産物であるというふうに考えている。特に、男性である我々が心に描く「友だち」の心象は、利害を超越した、絶対の信義と生死を共にする存在で、ということはつまり、これは、任侠の世界の生き物なのだ。

 友だちは、少なくとも、大人の人間同士の関係ではない。なぜなら、友情の前提となる信義と献身は、然るべき合理性を欠いているからだ。それどころか、友情は、それを脅かすものに対して命がけの牙をむくという一点において、反社会的ですらある。

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