『泣くな、はらちゃん』──『銭ゲバ』コンビだからこそ成し得た、虚構と現実の新しい関係

批評家・宇野常寛が主宰するインディーズ・カルチャー誌「PLANETS」とサイゾーによる、カルチャー批評対談──。

宇野常寛[批評家]×成馬零一[ドラマ評論家]

 2013年春期クールのドラマは、かなり豊作だった。その中にあって、脚本・岡田惠和、プロデューサー・河野英裕(日テレ)という、ドラマファン注目のコンビがタッグを組んだのが『泣くな、はらちゃん』だ。長瀬智也の久々のドラマ主演作、その評価のほどは?

毎回ドラマが放映されるごとに、作中に登場した「越前さんの漫画ノート」がウェブで公開された。(『泣くな、はらちゃん』ホームページより)

成馬 『泣くな、はらちゃん』は、『銭ゲバ』【1】(09年)のプロデューサーだった河野英裕【2】さんと脚本家の岡田惠和【3】さんが再びタッグを組んだ作品ですが、同じチームからこれだけ色の違うものが出てくるのかということにまず驚きました。岡田さんの作品には、物語の世界を生きる人=キャラクターと、自分には物語が訪れないと思っている人=人間という対比構造がありました。キャラクターが自分の物語を信じて疑わないのに対して、人間というのはやはり疑ってしまう。

 そうしたキャラクターと人間の関係性を、今作では人間と神様の関係に落とし込んで、キャラクターたちに創作者の越前さん(麻生久美子)のことを「神様」と呼ばせて、「お願いします、神様。あなたが幸せでないと、私達の世界はどんより曇ってしまうんです。どうか幸せになってください! そのために頑張って戦ってください!」と言わせてしまった。その設定と問いかけには、「参りました」という感じでしたね(笑)。

宇野 『はらちゃん』がすごいのは、長瀬智也にマンガのキャラクターを演じさせて、そのキャラクターが現実に出てきてあの立ち回りをするというコンセプトを思いついただけで普通の人なら満足してしまうところを、その先には何があるのかまでをしっかり描いていること。僕が驚いたシーンはいくつかありますが、一つは工場長(光石研)が死んでしまう回です。その回のラストで越前さんが工場長のことをマンガに描き、マンガのキャラクターとして再び工場長が登場しています。そのときには昔の記憶は全部なくなっていて、スカスカのマンガのキャラクターになってしまっているんだけれども、皆それなりに幸せになってしまっている。あれは温かいシーンとも言えるんだけど、「人間は他人のことをキャラクターのようにしか捉えていないんだ」という、すごくドライな人間観を打ち出しているともいえる。キャラクターというものを介してコミュニケーションすることの面白さと残酷さというものが、あの回には全面的に出ていました。

成馬 『はらちゃん』のもうひとりのキーパーソンは、プロデューサーの河野さんですよね。今回の企画はもともと河野さんの発案みたいですね。河野さんは『銭ゲバ』の後、『Q10』【4】(10年)を制作していますが、『はらちゃん』と『Q10』の構造はよく似ています。『Q10』では、ロボットのQ10(前田敦子)が「これはなんですか」と質問すると、みんなが答えていく姿を見せることで、キャラクターの視点から「人間とは何か?」ということを描いていました。今作でも、はらちゃんが現実世界の人間に「猫ってなんですか」「両思いってなんですか」と質問していく姿が描かれています。これは普通のドラマなら不自然なシーンで、リアリティを考えれば「ググれカス」で終わりですが、『はらちゃん』では、理想的な関係として描くことで現実を照射する作りになっている。逆に、わからないことを人に質問することが難しくなっている現実を描いたのが『車イスで僕は空を飛ぶ』【5】(12年)で、この作品では「なんで人は『助けてください』と簡単に言えないんだろう」ということがテーマになっている。『銭ゲバ』以降、河野さんの持っているモチーフは素朴で抽象的でありながらも本質的なものになってきていて、それが商品として成立していることに、毎回驚かされます。

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