関東大震災の絵はがき

浅草にあった「浅草十二階」と呼ばれた「凌雲閣」も震災で半壊し、解体された。

 1923年9月1日午前11時58分、のちに関東大震災と称されるマグニチュード7・9の地震が関東一円を襲った。被害は1府6県に及び、午後4時頃には人口密集地の東京下町が火の海となった。逃げ場を失った本所・深川の住民たちは誘導に従い、当時2万坪の空地となっていた本所区陸軍被服廠跡地(現・横網町公園)に集まっていたが、そこで熱風に襲われた。避難の際に持ち出した家財道具に火が燃え移ったためであった。東京は3日間燃え続け、被服廠跡地は4万近くの死体で埋め尽くされたという。身元不明の死体はその場で荼毘に付され、仮設の納骨堂に収容された。関東大震災の死者・行方不明者は10万5000人余とされているから、その半数近くがこの場所で亡くなったわけだ。最大の被害を出した被服廠跡地は、関東大震災を象徴する場所として長く人々の記憶に残ることになった。

 地震発生直後に「東京日日新聞」と「報知新聞」が手刷りの号外を発行した。被服廠跡地で累々と折り重なった焼死体の写真が問題となり、「報知新聞」が発行禁止命令を受けたが、この種の写真の一部が出回った。焼けだされた被災者たちが、震災の被害状況を印刷した絵はがきを仕入れて、露店で販売し始めたためであった。麻布・天現寺の工場が無事だった光村印刷所で数多く作成され、工場の前には絵はがきを仕入れに訪れた人々の長蛇の列ができたという。

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