>   >   > 閉鎖的な日本野球を刺激する、世界を【野球】で歩いた男の足跡

日本にプロ野球のチームは12球団しかない。野球は、日本国内のメジャースポーツの中でもプロになる道が険しい競技のひとつだ。同じように幼少期からプレーし始めても、その中心に立てる人数はどんどんと減ってゆく。だが、一度は競争に敗れた者たちの中で、国内の独立リーグや、アメリカ・カナダ・オーストラリア・欧州各国などさまざまな海外の地域の独立リーグやプロリーグの下部組織で野球を続ける人々がいることはあまり知られていない。自身も高校野球の強豪校から大学野球を経て、今もシーズンごとにさまざまな地域でプレーする現役野球選手である筆者が、その中で出会った同じような境遇の野球人たちの挑戦とその真意に迫る。

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「四国アイランドリーグplus」公式HP

 野球エリートと呼ばれる人たちがいる。青春時代を野球に捧げ、その才に恵まれた選手たちだ。彼らは大観衆が見つめる甲子園を席巻し、大学野球、社会人野球と活躍の場を広げていく。だが、メジャーリーグや日本のプロ野球の舞台に立つとなると、野球エリートの中でもほんの一部の選手だけである。年齢を重ねるごとにプロの世界に立てる可能性は低くなる。

 2006年、日本プロ野球(NPB)とは別に組織されたプロリーグ・四国アイランドリーグ(現・四国アイランドリーグplus)が発足した。独立リーグと呼ばれ、2007年に北信越を中心に設立されたベースボール・チャレンジリーグ(BCリーグ)と共に、年々その規模を拡大している。野球を職業とするすそ野は、昔に比べてとても広がった。全体としてはNPBの競技レベルには到底及ばないが、独立リーグからドラフト指名を受け、NPB入りしていく選手もたくさんいる(2015年は11名)。選手側からすれば、それだけ選択肢が増えたことになる。野球の本場・アメリカでも独立リーグが誕生してから20数年余り。そこで活躍する日本人選手も、毎年のように出てきている。アメリカだけでなく、現在世界各地の野球リーグに日本人が挑戦しているのだ。

 だが、そうはいっても、ほとんどの選手が30歳までには現役を離れていく。野球に限らず、30歳は大きな区切りになる年齢だ。若者から中年へさしかかり、その後の人生設計をリアルに考え始める。それが一般的な考え方であり、多くの人が辿る道だろう。

 だが、30歳を過ぎても野球から身を引かず、その道で生きていこうとする者もいる。今回紹介する田久保賢植もその一人である。田久保は世界各国の野球を経験してきた。プレイヤーとしてのみならず、2014年にはオーストリアのクラブチームで監督、ナショナルチームでコーチを歴任し、2015年もチェコ共和国でコーチを任され、指導者としての道をも切り開いてきた。さまざまな形で野球を経験し、さらに若い世代のために野球の可能性をもっと広げたいと考えている人物だ。野球との関わり方がグローバルに展開し、多様化している昨今、そのまっただ中で奮闘する田久保の存在は、プロ野球とはまた別の野球界というものが世界に有り得ることを体現している。

野球少年、海外野球と初めて出会う

 田久保が野球を始めたのは、小学校3年生。中学、高校と多くの野球人たち同様、野球一筋の生活を送り、これもまた多くの野球少年たちと同じように、プロ野球選手になることが夢だった。高校も、1年生から試合で活躍できるようにと、自宅から近い八千代西高校に入学する。たとえ強豪でなくても、1年生から目立つことができたらプロへの道はそう遠くないと思っていたからだ。夏の甲子園の千葉県予選では1試合で2本のホームランを放つなど注目を集めるが、大会ではなかなか勝ち上がれず、プロへのアピールの機会は十分とは言えなかった。

 そんな田久保が海外に興味を持ったのは、高校3年生の時だった。たまたま読んでいた野球雑誌に、アメリカ・メジャーリーグのトライアウトが日本で行われるという記事を見つけた。迷わずそのトライアウトに申込み、参加する。大学生や社会人選手たちが集まる中、フェンス直撃のツーベースヒットを放ち3打数2安打と存在感をアピール。この活躍により、メジャーの球団がフロリダで運営する、若い選手向けのベースボールアカデミーに入ることになった。

 これが初めての海外野球だった。この期間、田久保の眼にアメリカ野球はとても新鮮に映った。日本のように練習態度に関して厳しく指導されるようなことはなく、指導者はあくまで技術をとことん教えてくれる存在だった。日本では主体者は指導者だが、アメリカでは選手が主体者だと感じられた。指導者自らがグランド整備も道具の持ち運びもするし、サポート役としての印象も強かった。

四国アイランドリーグからカナダへーー待っていた現実

 アカデミーを終えた後、田久保は帰国して中央学院大学に入学する。しかし、直前のアメリカ野球の経験が、ここで足を引っ張ることになってしまった。

「アメリカの野球見て、グランドの解放感とか、監督・コーチもうるさいこと言わないとか、いいなぁと思ってた。向こう行くぐらいだから、モチベーションは高いわけじゃん。そうなると練習やるじゃん、言われなくても。でも日本では、『お前ら放っておいたらやらないだろ』っていう前提から入るでしょ。それが嫌だなと思ってた」

 この日米の違いが、中央学院でのトラブルを引き起こす。

「大学入ってすぐに怪我したんだけど、幸い試合には出てた。怪我をかばってたことでパフォーマンスは落ちてたよ。それで監督から『2軍に行け』って言われた。まぁ、休ませるためだったんだろうけど、その時は天狗だったから、『俺が2軍なんてありえねえだろ』みたいな。それで監督とケンカして、『2軍行くぐらいだったら辞めてやる』ってことで辞めることになったんだよね」

 大学も退学し、フリーターとなり野球から遠ざかって遊びまわる日々がしばらく続いた。野球に対する情熱は薄れ、モチベーションも途切れていた。しかし、1年ほどするとまた思いが甦ってくる。

「その時にくさるほど遊んで、遊んだ挙句、やっぱ野球やろうかなって思った」

 その1年が、改めて野球が田久保にとってかけがえのないものだと、彼に教えてくれたのかもしれない。そして田久保がそれを実感するためにも、必要な時間だったのかもしれない。

 プロ野球の練習生や社会人野球など、あちこち入団テストを受け、最終的にはアメリカのトライアウトツアーに参加した。そのツアーをきっかけに、再びアメリカでプレーする機会を得た。主にプロ志望の若手選手が中心に参加するアメリカ・サマーリーグのキャロライナ・インディアンズで、1シーズンを過ごした。アメリカでは、各地にこういった大学生や学卒選手を対象にしたアマチュアリーグが点在している。

 帰国後もプロテストを受けて回ったが、納得のいく結果は得られない。そんな中、日本ウェルネススポーツ専門学校硬式野球部が田久保に興味を示し、特待生として入学の招待を受けた。高校しか出てない負い目もあり、野球がやれるならと思い入学する。日本野球連盟に属する専門学校野球部は社会人チームとして登録され、都市対抗野球に出場するような強豪企業チームと対戦することもある。2年間の在学中、スキーやキャンプのインストラクター、シュノーケル指導員やパソコン検定などの資格も取得した。

 ウェルネスで技術を磨いた田久保は、その後新しくできた独立リーグ・四国アイランドリーグの入団テストを受け、合格。徳島インディゴソックスに入団した。だが、プレーする中で、疑問を感じることも多かった。田久保が最も嫌っていた日本野球の典型的な部分――厳しい上下関係や高圧的な指導――をまざまざと見せつけられたのだった。指導者同士の軋轢もあり、この年(2007年)、徳島インディゴソックスはリーグ最下位を独走する。

「あのときに、負けるチームの典型的な例を経験した。どういうチームの中で、どういう人間が上にいると成立しないとか、指導者がどういう意思疎通をしてたらうまくいったのかとか。そういう面ではいい経験になったよね」

 若くして海外野球というもうひとつの基準を持っていたことも、日本野球の短所を強く感じさせた理由かもしれない。疑問や不満を抱えたままで、パフォーマンスが向上することはなかった。ここに居続けることは自分にとってプラスにならないと感じ、1年で退団。海外野球を再び目指すことにした。

「最後までいてもうおなかいっぱいだったし、このチームにいても仕方ないと思った。日本で勝負したいと思ってなかった。それで知り合いに相談して、カナダにあるリーグのトライアウトを受けさせてもらえたのね。そこでOKもらって、プレーできることになった。自分では、そこからメジャーに駆け上がってやろうと思ってたからさ」

 24歳になるこの年、田久保はカナダのセミプロリーグであるインターカウンティ・ベースボールリーグ(通称IBL)に挑戦した。ストラットフォード・ナショナルズというチームに所属する。しかし、目の前に立ちはだかったのは厳しい現実だった。

「メジャーを目指す一歩目だったけど、数試合で解雇された。そこで初めて自分の限界に気付かされたよ」

 中南米から有能な補強選手を集めるこのリーグで活躍するには、相応のレベルが求められる。選手の入れ替えも激しい北米のリーグでは、少し結果が出なければ即解雇の対象となってしまう。解雇されたのがシーズン序盤ということもあり、他のチーム、それから他のリーグに営業メールを送り、入団テストを受けさせてもらい、選手として雇ってくれる場所を模索した。あらゆる方法を試したが、いい結果は得られず、帰国を余儀なくされてしまう。

「自分のやれること全部、出しつくしてきたつもりだったから。チーム探しも全部自分でやったよ。そこにいれば飯食わなきゃいけない。渡航費もかかるし、移動すれば交通費もかかる。なんとかやりくりしてきたけど、資金も底をついた。ここまでやったらもう駄目だなと思って、野球辞めて、働こうと思ったんだよね」

 完全に心が折れていた。この時ばかりは挫折に押しひしがれ、これ以上の挑戦を自分自身が許容できなかった。野球からは引退し、社会人としての人生を歩むことをあっさり決意する。だが、実際はモチベーション高く臨んだ矢先にクビを切られたことで、気持ちの整理もついていなかった。

「『オールド・ルーキー』みたいな価値を示したい」

 カナダから帰国後、田久保は一般企業に就職を決め、サラリーマンとしての人生を歩み始める。野球は、週末の休みを使ってクラブチームの活動に参加するだけとなっていた。野球中心の生活から仕事中心の生活にガラリと変容する。それでも野球にはどんな形であれ、関わっていたかった。

 再び野球の道に戻ろうと思ったのは、就職してから1年半が経とうとする頃だった。コピー機や複合機器のリース販売の営業で優秀な成績を収めていた。即決営業が基本方針のこの会社で、場数を踏むごとに適応していく。海外に飛び込んでいく度胸があるからこそ、営業も怖くはないと感じていた。仕事自体つまらないわけではない。だが、ふと自分の将来を考えると、20年、30年と、この仕事を続けることは想像できなかった。飲みに行けば、会社員たちが不満や愚痴を並べている。「俺が若い頃はよ……」と過去に執着した思い出話が、四方八方から耳に入ってくる。そんなサラリーマンたちを、田久保は冷ややかな目で見つめるしかなかった。

 同時に、社会人として過ごしてきたことで、物事に対する考え方も変わってきていた。時間の使い方、お金の流れ、社会構造。世の中の仕組みが少しずつだが見えるようになったと感じていた。この感覚をもってすれば、日本のプロ野球に新しい価値を示せるかもしれない。気がつけば、野球に対する強い情熱が回復していた。

「1回野球から離れた人間のチャレンジというか、日本のプロ野球に『オールド・ルーキー』みたいな価値を示したいと思った。ドロップアウトした人たちも、1回弾かれたらダメなのか? 監督と合わなくてとか、辞めさせられてとかっていう子たちも上目指しちゃダメなのか? そうじゃねぇぞ、って」

田久保賢植(たくぼ・けんしょく)
1984年、千葉県出身。野球選手、指導者。<http://takubokenshoku.com/>

著者/宮寺匡広(みやでら・まさひろ)
1986年、東京都出身。小学校2年生で野球を始め、高校は強豪・日本大学第三高校に進学。2年間の浪人を経て慶応義塾大学文学部に入学し、野球部に所属する。卒業後、一般企業に就職するも1年半で退社、現役復帰。アメリカやカナダ、オーストラリアなど海外の独立リーグを中心に、現在も選手生活を送っている。

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