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【premium限定連載】芸能ジャーナリスト・二田一比古の「週刊誌の世界」

息子の話をする時に見せた笑顔は父親のそれだった――週刊誌とも格闘した伝説の漫才師・横山やすし

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『昭和の名コンビ傑作選 1 横山やすし・西川きよし: DVD付マガジン よしもと栄光の80年代漫才』(小学館SJ・MOOK)

 最近の芸人は、マンションを買うなど財テクに走る傾向にある。芸人の大先輩の横山やすし(1996年没・享年51歳)は財テクなどまるで無関心だった。むしろ借金が大物芸人の証とも言われていたほどだ。やすしの住んでいた家は庶民的な二階建ての一軒家だった。大阪市内から車で30分以上もかかる下町の住宅街。「すぐ裏に川が流れておるやろ。ここに俺のボート(趣味の競艇用)を停泊してあるんや。いつでも乗れるからな」というのが理由だった。

 やすしは趣味の競艇と酒には惜しみなく金を使ったが、他のことには無頓着な人だった。

 この家を初めて訪れたのは、1998年に長男・木村一八(現在47歳)が六本木の路上でタクシー運転手に暴行し、傷害で逮捕されたときだった。当時、19歳だった一八は少年院に収監。1年後ぐらいだったと思うが、間もなく出所という情報を得て、保護責任者である父親のやすしに確かめる目的だった。

 事前にアポを取ると、「俺は謹慎中やし、酒も止められている。朝からでもいいで」と言われ、朝9時過ぎに家を訪ねた。

 奥さんと2人の謹慎生活。あまり来訪者もないのか、ご機嫌で迎え入れてくれたのだが、「家じゃあ、話しにくいこともある。喫茶店に行こう」と少し歩いたところにある地元の喫茶店に入った。やすしがコーヒーを飲んだところを見たことはなかった。むしろ、「あんな進駐軍が飲むようなものを飲めるかー」と毛嫌いしていた。席に着くなり「ビールくれや」。他の客はコーヒーとモーニングのトーストを食べている横で堂々と朝ビール。当然のように「コーヒーなんか飲むな」、でビールを付き合わされた。まずは相方だったキー坊(西川きよし)との確執話だった。私のなかでは後はいかに一八の話を切り出すかだけだったが、お酒が入ると止まらない人だった。禁酒どころか喫茶店を出て、次に向かったのは市内の居酒屋。そこには競艇仲間が集まってきた。他の客がランチをたべている横で、こちらはすでに宴会状態。取材どころではなく、競艇話を聞くだけだった。夕方近く解散。ようやく2人になった。「少し話をしましょう」と持ちかけると、やすし馴染みの法善寺横丁の寿司屋に移動。今度は日本酒を飲みながら少しずつこちらの質問に耳を傾けだした。本当に聞きたいのは、一八のいる少年院と出所日だけ。少年院までは聞いたが、出所日になると「そんなことを聞きたくて来たのか」と一喝する。やすしの対応には慣れているとはいえ、始末が悪い。ただ、話した感触から出所日が近いことは掴めた。その日は、最終の飛行機を予約していた。とりあえず帰ることを告げると、夫人を呼び出し、「車で送らせる」と言い出した。やすしは自分の行為をムゲにされることを凄く嫌う。車で寿司屋に迎えに来た奥さんの運転する車で伊丹空港に向かった。車の中は相変わらずうるさい。隣の車に向かって「ボケ!」と怒鳴るやすし節は全開。

 空港に到着。これで無事に帰れると思っていると、「まだ乗るのは早いだろう」と、空港内にある行きつけの寿司屋に拉致された。奥さんも「もうよしなさい」とお酒を止めても、もう誰も止められない。

 また飲みだす。寿司屋のハシゴである。

 搭乗時間が迫る。「大丈夫や。俺はいつも飛行機を待たせる」と言い出す始末。結局、飛行機に乗り遅れ、新幹線もなくなり、カプセルホテルに泊まった。一八が出所したのはその3日後だった。思い起こせば、一八の話をするときに時折見せた笑顔は帰ってくる息子を待つ父親の顔だった。一八は出所後、しばらくやすしと自宅で謹慎生活を送っていた。父と息子の関係が一番、充実していた日々だったのかもしれない。

(敬称略)

二田一比古
1949年生まれ。女性誌・写真誌・男性誌など専属記者を歴任。芸能を中心に40年に渡る記者生活。現在もフリーの芸能ジャーナリストとしてテレビ、週刊誌、新聞で「現場主義」を貫き日々のニュースを追う。

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