単身乗り込んだ香港映画界で一時代を築き、70年代カンフー映画ブームの一翼も担った“和製ドラゴン”倉田保昭。御年80歳。今年、俳優生活60周年の節目を迎えたレジェンドに、「生涯現役」を体現する最新作『夢物語 The Living Dragon』に込めた思いと、唯一無二のその生き様を聞いた!!
(写真/宇佐美亮)
──今回の作品『夢物語 The Living Dragon』は3つの短編からなるオムニバス。それぞれの監督を、倉田さんご自身の愛弟子でもある坂本浩一(※1)、下村勇二(※2)、谷垣健治(※3)という当代随一のアクション監督が務めたことも大きな話題です。
倉田保昭(以下、倉田) そこはやっぱり、他のアクションクラブ出身の方にお願いするのも、ちょっと違う感じがするでしょ? “継承”なんて言うと大げさだけど、「倉田アクションとはこうなんだ」というのを、残るものとして焼きつけておきたいっていうのも、僕のなかにはあったんです。
──谷垣監督パートの「不思議の国のドラゴン」では、盟友サモ・ハンさんとの立ちまわりも。そのあたりの出演交渉なども倉田さんが段取りを?
倉田 そう、あれはもう僕と彼との関係性で。低予算だから、さすがにどうかな、と思いつつ、恐るおそる「ちょっと出てよ」と話をしたら、ストーリーも何にも聞かずに「倉田がやるんだったら出るよ」って。で、「この日が空いてるから香港に来てよ」って言うから、じゃあ、そこに合わせてみんなで行こうよ、となったんです。だから当の谷垣も驚いていましたよ。「本当に出てくれるんですか!?」って。
──それはさぞかし、「やっぱり師匠はすごい!」となったのでは?
倉田 まぁ、現実世界に残すべきものなんて、僕自身にはあんまりないからね。あるとすれば、映画という“夢”のなかにだけ。実際、今回監督をお願いした3人にしても、弟子ではあるけど手取り足取り指導したなんてことはほとんどない。現役でやっている僕をただ遠目に見ながら、自ら学んで、育っていってくれただけですから。
──そもそも倉田さんが香港に渡られた頃は、海外への出国者数も年間で50〜60万人程度。いまとはハードルの高さも比べものになりませんよね。
倉田 あの頃はまだ成田空港もなかったし、日本円も現金では2万円以上は持っていっちゃダメ、という時代。一応、空港にはショウ・ブラザーズ(※4)の東京事務所にいたワンさんって人が見送りに来てくれていたけど、僕にわかっていたのは2週間の予定で映画に出る、ってことだけ。そのワンさんからも、「向こうの空港に着いたら会社の人間が待っているから」としか聞かされていませんでしたね。
──なんと、いい加減な(笑)。
倉田 ただ、香港でのデビュー作になった『続・拳撃 悪客』のチャン・チェ監督はスター作りがすごく上手い人で。空港に着いたら、何人かの新聞記者がすでに僕を待っていてね。何がなんだかわからないまま「はい、はい」と受け答えをしていたら、翌日には「いやに礼儀正しい俳優が日本から来た」みたいな記事が出て(笑)。同作で主演を務めた2大スター、デヴィッド・チャン&ティ・ロンに次ぐ存在として、わりとスター扱いをされたんです。あの頃は、ブルース・リーもまだ香港には戻っていない時期だったしね。
──やっていける、という手応えを感じたのはどのタイミングで?