女性用の袴は洋服の改良から生まれた! トンデモな俗説を覆す洋装の「正しい」日本史

(写真/Getty Images)

日本において女性の洋装化に影響を与えたのが、1923年の関東大震災だという話がある。あるいは、1932年の白木屋百貨店火災の際、着物をまとった女性たちが下着をつけていなかったため、地上に降りるのを恥ずかしがって墜落死し、それから女性が下着を履くようになった、という説もある。こうしたことは、テレビやネットなどでたびたび語られている。

しかし、「それはおかしい」と批判する一冊が『洋装の日本史』(インターナショナル新書)だ。同書を著したのは、日本近代服飾史を研究する刑部芳則氏(日本大学教授)。NHK朝ドラ『エール』の風俗考証や大河ドラマ『西郷どん』の軍装・洋装考証も担当したことで知られる同氏に、デタラメだらけの俗説がまかり通っている日本洋装史の「意外な真実」を訊いた。


「○○で一気に普及が進んだ」論のいい加減さ

刑部芳則著洋装の日本史(インターナショナル新書)

――刑部先生は「女性の洋装化に影響を与えたのは関東大震災」「白木屋百貨店火災で女性が下着を履くようになった」説はおかしい――前者が正しいなら、なぜ10年経ってまだ和服を着ているのかと冷静にツッコミを入れています。

刑部 私の祖父は関東大震災を経験していますが、リアルタイム世代ですらそうした俗説を信じて私に話していました。ところが、誰がそもそも言い出したのか、本当にそうなのかを研究した論文がない。実際に調べていくと、関東大震災でも白木屋火災でもなく、「何かが起きたから、すぐに変わった」ような単線的な変化・普及過程をたどったわけではないとわかってきました。

――男性の洋装についても「幕末から洋服を着ていた、または明治になってすぐに洋服になった」と思いがちですが、全然違うと。

刑部 明治新政府がつくられた際(1968年)の議論を追いかけても、「洋服を採用しよう」という話がそもそもありません。文明開化といっても「長所と短所を見極めろ」という発想で、全面的に欧米化しようとは政治家も有識者も言っていなかった。幕末に薩摩藩はイギリスと戦争したりしているわけですから、敵国の文化を無批判に受け入れるはずがないというのは、考えてみれば当たり前のことです。ですから、服装に関しては「動きやすい」という機能性を理由にして軍服だけをまず採り入れた。それ以外の武家、公家装束は従来モデルを踏襲して、身分に基づく階層構造で服に使える色や文様を分けていこうとなった。

ところがそれをやると、五箇条の御誓文(1868年、明治天皇が宣布した明治新政府の基本政策)で「廣(ひろ)ク會議(かいぎ)ヲ興(おこ)シ、萬機(ばんき)公論ニ決スヘシ」と言っているのに、大久保利通、木戸孝允のような藩士出身者は殿様に逆らえない。天皇を取り囲んできた公家も伝統的な慣習や先例を打ち崩せない。それではまずいということで、農工商民より上に立ち、帯刀特権を持ってきた武士階級としては苦渋の選択ながら、廃藩置県を行い、世襲門閥制による身分制をなくして、実力や能力重視の四民平等に転換した――それで洋服・散髪・脱刀を採用したわけです。つまり、男性の洋装化は明治新政府樹立に伴って自動的に起きたような予定調和的な改革ではなく、最初は考えていなかったけれども採り入れることになった、結果論なんですよ。

――なるほど。女性の洋装化に関しても、俗説としてよくいわれる「鹿鳴館落成式が行われた明治16年(1883年)から、『欧化政策』を牽引した外務大臣・井上馨が辞任する明治20年(1887年)までの『鹿鳴館時代』に、女性は洋服を着るようになったが定着せず、その後、国粋主義運動が起こって和服へ戻っていった」という考えは誤りだと。

刑部 そうです。その当時は上流階級でも一部しか洋服を着ていませんし、庶民は明治20年代でもほぼ和服だけです。私が歴史学の立場から批判している家政学の服飾史研究では、鹿鳴館の夜会に呼ばれて踊る女性と女子師範学校が一部で洋服を採り入れたことをいっしょくたにしています。それで「洋服が普及した」と言っているのですが、鹿鳴館に呼ばれた女子生徒は東京近郊に住む華族や官僚の娘くらいで、地方に住んでいる子たちは関係ありません。そもそも洋装を採り入れていない学校もある。しかも、鹿鳴館の夜会は国粋主義の影響でなくなってなどいなくて、毎年のようにやっています。政府が欧化政策に力を入れなくなるのは、議会や憲法など制度ができあがったから、それ以上追従する必要がなくなっただけです。そして、洋服が定着しなかったのは欧化政策も国粋主義も関係なく、「高すぎる」「窮屈で健康面に影響がある」「活動するのに不便」という三重苦に女性たちが耐えられなかったからです。これらを克服するために明治20年代から「衣服改良運動」が展開されます。

洋服の三重苦を克服したセーラー服が普及

――衣服改良運動から「洋服の代用品」として女性用の袴が登場する、と刑部先生は指摘されていますが、これは面白いですね。

刑部 女性用の袴に関しては、単に「和服の改良」であって洋服とは別物だとこれまではいわれてきたのですが、流れを見ていくと、洋服の三重苦を克服するための衣服改良運動が生んだ最高傑作が女性用の袴なんですね。高すぎず、窮屈でなく、活動的な服として考案されたものなんです。日本で洋服がすぐ普及しない中で、「上は着物、下は袴」という機能性重視の組み合わせが登場し、急速に普及していった。そして、明治の「衣服改良運動」が大正8年(1919年)には「服装改善運動」に名前を変え、発展的に洋装の制服が登場してきます。

――セーラー服は大正10年(1921年)に愛知県の金城女学校が採り入れたのが最初だと刑部先生が突き止めていますが、その後普及していったのは、生地さえ用意すれば女学生が簡単に縫製でき、活動するにも便利でおしゃれだったから――これもまた洋服の「高い」「身体に悪い」「不便」という三重苦が克服されたものだったからだと。

刑部 大正時代に服装改善運動が展開されることによって、洋式の制服を採り入れる学校が出てきます。ミッション系の学校は海外と通じていましたが、海外の学校では当時セーラー服が男女問わず子供服で大変流行していたんですね。名古屋の金城女学校のローガン先生の娘さんもセーラー服を着ていて、それを見た女生徒たちの間で「これがいい」ということで作って登校し始める、それが制服化された。といっても、金城女学校一校の影響力でガラリと変わったわけではなく、各地域ごとにさまざまな理由から採り入れられ、ほかの高等女学校でもデザインが美しい、かわいい、あれを着たいということで広がっていきました。

戦後の洋裁ブームは戦前から用意されていた

――昭和10年代(1935~44年)になっても、高女出身者でさえ卒業してしばらく経つと和服になってしまい、なかなか洋服は普及しなかったそうですね。和服のほうが華麗で選択の余地が大きかったからだとご指摘されていますが、洋服より和服のほうがおしゃれの幅が広かったというのは、今の感覚からすると意外に感じます。

刑部 服装改善運動の結果、洋装の制服が広まりましたが、未成年の高等女学生と職業婦人(働く女性)の間での成功であって、それ以外の一般家庭の主婦にまでは昭和になっても普及しなかったんですね。当時の洋服は高額で、色やデザインの選択肢が少なかった。対して着物は色鮮やかで、高級品から廉価品までいろいろな素材のものがあり、カラフルな文様があり、帯や紐の組み合わせに至るまで、おしゃれな楽しみができた。

ただし、セーラー服に袖を通してその魅力を感じながら高等女学校を卒業し、洋裁学校に通う生徒が昭和の初めから徐々に出てきて、年々増えていったことも見逃せません。こうした女性たちは、生地さえ買えば安く洋服を仕立てることができ、日常では着物を着ていても何か機会があれば洋服を着たいと思っていました。洋裁ができる女性は戦前の時点で3割もいたんです。これが終戦後、昭和20年代(1945~54年)の洋裁ブームを準備します。やはり家政学では洋裁ブームも「敗戦でマッカーサーが来て価値観がアメリカナイズされ、突然起こった」かのような「何かひとつの出来事によって激変」という語りをしているのですが、そんなわけはなく、戦前から連綿と続いているんですね。

――戦時中の1940年代になると、女性のスカートだけでなく和服もけしからん、モンペを履けと、「和服」まで否定されているのが興味深かったです。

刑部 日本精神を打ち出すには和服はいいのですが、男性が軍服を幕末から明治維新期に採り入れたのと同じで、戦うためには非活動的です。敵国に勝つためには洋服が必要でした。しかし、物資もないので筒袖(丈の短い袖)にモンペという代用品で戦いました。このとき、若い人から中高年まで生き抜くために着ました。着物では裾が開くためうまく走れないけれども、モンペはズボンの替わりですから、すごくラクだと多くの女性が身体的に知るきっかけになりました。ただ美的感覚からすると、モンペは最低最悪という位置づけです。

そして、敗戦の時点(1945年)で服装改善運動から20数年経っており、大正や昭和初期にセーラー服を着ていた女の子たちはお母さんになっています。そこに既製服や化学繊維の下着の大量生産による供給が起こり、「洋服は高い、着物は安い」という位置づけが徐々に逆転していきます。昭和30年代、40年代(1965~74年)の新宿や銀座の映像を見ると着物を着た年輩の女性がまだたくさんいるのですが、昭和50年代(1975~84年)には着物を日常的に着る女性は消えていきました。

これまで家政学の服飾史研究者が描いてきた都市伝説のような「トンデモ論」を、歴史学の立場から実証的かつ論理的に正しています。日本人がどのようにして着物を捨て、洋服を着るようになっていったのかという「洋装の日本史」を知っていただければ幸いです。

(取材・文/飯田一史)

刑部芳則(おさかべ・よしのり)
日本大学商学部教授。1977年、東京都生まれ。2010年、中央大学大学院文学研究科博士課程後期課程修了。博士(史学)。同大学講師などを経て、22年より現職。専攻は日本近代史。NHK大河ドラマ『西郷どん』で軍装・洋装考証を、NHK連続テレビ小説『エール』で風俗考証を担当。『洋服・散髪・脱刀』(講談社選書メチエ)、『明治国家の服制と華族』(吉川弘文館、日本風俗史学会江馬賞受賞)、『古関裕而』(中公新書)、『セーラー服の誕生』(法政大学出版局)など著書多数。

飯田一史(いいだ・いちし)
マーケティング的視点と批評的観点からウェブカルチャーや出版産業、子どもの本について取材&調査して解説・分析。単著に『ライトノベル・クロニクル2010-2021』(Pヴァイン)、『いま、子どもの本が売れる理由』(筑摩選書)、『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの?』(星海社新書)、『ウェブ小説の衝撃』(筑摩書房)など。「Yahoo!個人」「リアルサウンドブック」「現代ビジネス」「新文化」などに寄稿。単行本の聞き書き構成やコンサル業も。

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