サイゾーpremium  > 特集  > 社会問題  > 戦前ニッポン「違法」風俗の裏事情
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永井荷風『濹東奇譚』は過去に3回映画化された。左が1960年、右が1992年版のポスター。

戦前日本の売買春といえば、江戸時代の遊郭からの流れを汲む吉原をはじめとした場所で働く「公娼」のイメージがおそらく強く、学術的な研究も公娼中心で進んできた。しかし実際には、銘酒屋の酌婦(しゃくふ)やカフェーの女給といった「私娼」も数多く存在していた。公娼側からは商売敵(がたき)とみなされつつも、公娼にはないものを提供することで、都市に流入してきた青年や労働者層などを獲得していったという。『戦前日本の私娼・性風俗産業と大衆社会 売買春・性風俗の近現代史』(有志舎)を著した立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員の寺澤優氏に、知られざる当時の私娼事情を訊いた。

震災復興のために花街になる

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寺澤優著戦前日本の私娼・性風俗産業と大衆社会 売買春・性風俗の近現代史(有志舎)

――戦前には「私娼廃止論」が「公娼」サイドから唱えられていたそうですね。

寺澤 当時は公娼制度があり、合法的な売買春が認められていました。公娼は政府によって定められた規則を守り、遊郭業者は賦金といわれる税金のようなものをを収めていた。対して私娼は、そもそも法律的にアウトであり、規制の対象外で、税金も払っていない。その不公平感から「私娼をどうにかせよ」という議論が出てきました。そして、私娼が増えていったことで警察や内務省も事実上追認し、地域などを絞って管理対象とする準公娼制度ができていきました。

――戦前の私娼は今の「立ちんぼ」みたいなものではなかったと。

寺澤 そうですね。

――公娼以外からの私娼に対する批判はあまりなかったのでしょうか。

寺澤 地域住人が「風紀が乱れる」と警察に時折訴え出ることはありましたし、女性団体も師匠には否定的でしたが、社会的にはおおむね「必要(悪)」という感じで受け取られていたのかなという印象です。

――公娼でも私娼でも、やはり当時はお金に困って家族に売られたりして就業している人が多かったんですよね?

寺澤 公娼はそうですし、私娼でも芸妓(げいぎ)や酌婦はそうでしたが、実は大正時代に都市部で登場してきたカフェーの女給はそうではない人も多くいました。それがライトな風俗産業として台頭してきます。

――芸妓、酌婦、カフェーの女給について、ひとつずつうかがいたいのですが、「芸妓」は表向き芸人であって、公娼である「娼妓(しょうぎ)」とは法律上も別物ですよね。

寺澤 はい。ただ、実際は芸妓もパトロンなしには生活できずに、半ば公然と売春していました。

――芸妓の組合が警察と癒着して黙認させたり、地域住民が「利益になるから」と花街として認められるよう行政への働きかけまであったそうですね。

寺澤 関東の都市部では関東大震災からの経済的な復興を目指す中で、地域に利益をもたらす手段のひとつが歓楽街化、花街になることでした。芸者さんがいる地域によっても実態はさまざまで、芸しか売れない地域もあれば、パトロンとして特定の旦那さんにまとまった生活費をもらうケースもあり、東京では1回いくらという形で売春をしていました。


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