サイゾーpremium  > 特集  > 社会問題  > 戦前ニッポン「違法」風俗の裏事情

国家が「恋愛」を危険視した理由

――1928年頃から東京など都市部の繁華街でカフェーが乱立して、女給による性的サービスが常態化するそうですが、単に性を売るのではなく駆け引きを含めた(擬似)恋愛込みで売る、恋愛を疑似体験する場でもあったと指摘されていて、これも意外に感じました。

寺澤 恋愛と性と結婚(生殖)の「三位一体」がセットになった概念が日本で広まったのは、明治から大正時代にかけてです。しかし大正から昭和初期までは、恋愛は理想としては言われていても、男性も女性も現実世界ではなかなか実践できなかった。恋愛結婚が見合い結婚を上回るのは戦後、それも1960年代後半のことです。戦前、小学校までは男女共学でも、それ以上は男女別学、職場はというと女性の就職は少なく、会社でも男性ばかりですから、結婚前の男女が出会って交流する機会が限られていました。そこで商売として「性を売る」だけでなく、都市に大量に流入してきた学生や労働者階級の青年に対して、恋愛に至るかもしれない「関係性を売る」新しい場所として出てきたのがカフェーだと思っています。

――15年戦争(1931~1945年の満州事変・日中戦争・太平洋戦争)が進行し、戦局が悪化する中で、風俗産業でも特に厳しい処遇を受けたのが、男女ペアになって社交ダンスを踊る「ダンスホール」だったそうですね。公娼は良くてダンスホールを禁止するのは今の感覚だとよくわからないのですが、当時の国家権力からすると、女性が自由恋愛する身体を持つこと、ダンスを通じて女性がいろいろな男性の身体と接触することのほうが、家制度を揺るがすものとして危険視されていた?

寺澤 ここはまだ実証面でも課題が多いのですが、戦時下では戦争遂行にあたって家制度を強固にすることが目標とされており、女性が精神的に遊ぶことは「家を崩壊させる」と考えられていたからだろうと思います。男性が女遊びをしても女性が子どもの面倒を見ればいいけれども、母親が家をないがしろにすると国家の構成単位である家が成り立たなくなる。それをおそらく国家権力が危惧していた。家制度の中で女性は精神的な処女性を求められており、実際に性的に自由に振る舞うこと以上に、精神的に恋愛にかまけて家庭をないがしろにすることが日本を危険にさらすと考えられたのではないかな、と。


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