内田九一「明治天皇像」(1873年/IZU PHOTO MUSEUM蔵)
大日本帝国憲法第3条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるが、かつては天皇本人だけでなく、その肖像さえもが神聖視され、同一視された。いわゆる「御真影(御写真)」である。
1873年に写真師・内田九一によって撮影された明治天皇の肖像写真は、近代化と国民統合のシンボル・イメージとして流通し、広く国民の眼に触れた。洋装の明治天皇の肖像としてよく知られているのは、内田の写真よりも、大蔵省に招聘されたお雇い外国人エドアルド・キヨッソーネが1888年に制作した御真影のほうではないだろうか。明治天皇が自身の写真を撮ることを許さなかったために、この御真影はキヨッソーネ自身がモデルに扮して撮影した写真と、行幸の際に隣室から密かにスケッチした顔を合成して制作されたとされている。明治の元勲たちは、明治天皇本人をカメラの前に立たせることなく、近代国家の君主としてふさわしい理想的な天皇像を作り上げることに成功したのである。
キヨッソーネの描いた西郷隆盛の肖像が、弟の西郷従道と従兄弟の大山巌の顔を組み合わせたものであったように、御真影として描かれた明治天皇も実在の人物というよりは、「非現実的イメージ」(多木浩二『天皇の肖像』岩波新書、1988年)であった。
吟光「新富町都座七月興行大海嘯」(1896年/川崎市民ミュージアム蔵/岡コレクション)
現人神・天皇の威光はその肖像にまで及び、1896年の明治三陸地震の際には津波に流された御真影を守った人々の美談がいくつか残されている。例えばこの年の「風俗画報」には、「越喜来村は駐在所流失し巡査家族共に死亡し尋常小学も流失したるも訓導佐藤陳は妻子の死を顧みず辛ふじて御真影を安全の地に奉置せり」という記録がある。人間の命よりも重い写真などあろうはずもないが、この頃には校舎火災や地震などの際に御真影を守ろうとして責任者が死亡したり、焼失を苦にして自殺する事件がしばしば起こるようになっていた。
この御真影は写真というよりはキヨッソーネの原画を写真師・丸木利陽が複写した、いわば写真と絵画のハイブリッドである。絵画を写真という形式に変換することで描かれた人物のリアリティが増幅され、複製も容易となる。特別な取り扱いを受けることで呪物と化した御真影は、天皇の「代理表象」として長らくその臣民へと眼光を注いできた。
昭和天皇(写真:Everett Collection/アフロ)
明仁天皇(写真:宮内庁提供、Fujifotos/アフロ)
敗戦後もしばらく神聖視されたというが、1946年に文部省により「奉焼」すべしとの通達が出たことによって廃止されている。この年に「人間宣言」を行った天皇と同じく、御真影がまとっていたオーラも雲散霧消し、ただの写真に戻った。今上天皇の御真影は今のところ作られていない。
奉安殿
御真影と教育勅語を安置するために作られたコンクリート製の奉安殿は、戦後、閉鎖されるか、倉庫などとして転用された。
小原真史
1978年、愛知県生まれ。映像作家、批評家、キュレーター。現在、IZU PHOTO MUSEUMで企画した増山たづ子展が開催中。