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写真時評~モンタージュ 現在×過去~

「富士の写真家」(下)

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「暁雲の霊峰」1932年(制作は36年)、伊那市立高遠小学校蔵

 即位の礼と大嘗祭が終わり、長らく続いた「令和狂騒曲」も次第に落ち着きを見せてきたように見えるが、先日の天皇・皇后の伊勢神宮参拝を報じたNHKのニュースには、思わず耳を疑ってしまった。「皇室の祖先とされる天照大神を祀る内宮に参拝されました」と、神話と現実を混同したような時代錯誤の解説が聞こえてきたからだ。

 しかしながら、今の日本が1940年を「紀元二千六百年」と称していた時代とさほど変わっていないのではないか、と思わされることは、これまでも多々あった。例えばそれは、1000円札を使用する際にもときおり感じさせられていたことだ。

 現行の1000円札の裏面には、岡田紅陽が撮影した「湖畔の春」を原画にした富士山が印刷されている。38年発行の政府紙幣にも「紀元二千五百九十八年」の文字と岡田紅陽の「峯は晴れゆく」を原画にした富士山と桜が印刷されており、来たるべき1940年に向けた当時の熱狂を垣間見ることができる。日本は戦前も戦後も同じ写真家の富士写真を紙幣に印刷してきたわけだ。

「紀元二千六百年」を控えた日本は、建国神話に関連する出版ブームに湧き、紅陽の写真集『富士山』(アルス)の表紙も「紀元二千六百年記念出版」という文字で飾られていた。まえがきには、紅陽のこんな言葉がある。

 皇紀正に二千六百年。揺ぎない伝統に生くる大和民族の熱と力とは、いま世界の狂瀾怒濤の真直中に突き進んでいる。――さうだ。先づ興亜の黎光を目指して、新体制の旗は翻つたのだ。この機を一単位として、八紘一宇の肇国の大理念をシンボライズする霊峯富士山をいま燃え立つ心で、厳粛の態度でもう一度見直したいと思ふ。
              
 この頃の紅陽の富士は、彼自身も記しているように、大日本帝国のイデオロギーに彩られた「霊峯」として国民の目に触れていたのであり、決して単なる風景写真ではなかった。

 43年に紅陽が昭和天皇に富士写真「神韻霊峰」を献上したのは、有名な逸話であるが、ムッソリーニやヒトラーも彼の富士写真を保有していたことは、あまり知られていない。ムッソリーニには紅陽自らが渡欧の際に献上し、ヒトラーには美容整形の先駆者である医師の内田孝蔵から「日本魂の表象」として「暁雲の霊峰」【上画像】という長辺180センチを超える額に入った作品が贈られている。後者の額に付けられたプレートによれば、ヒトラーへの寄贈は36年に行われ、記念としてもう一点同じものが作られて翌年に母校の小学校に贈られたようだ。日独伊三国同盟のトップ3全員が紅陽の富士写真を所蔵していたという事実には驚かされるが、さらに驚くべきは、敗戦後すぐにマッカーサーにも本人から寄贈されていることだ。戦中、あれほど苛烈な言葉を写真集に記していた写真家が、敗戦と共に敵側であった連合国軍の総司令官のところに自作を持ちこむなど、常識的な感覚からすれば、理解に苦しむ行為のはずだ。しかし、このような例は、紅陽に限ったものではなく、枚挙に遑がないほどなのである。

 こうした事態を理解するためのヒントは、劇作家の木下順二が86年元旦の「朝日新聞」に書いた「小さな兆候こそ」という文章の中にあるかもしれない。

 ナチスが政権を取った年のある日、ドイツ人の経営する商店の店先に「ドイツ人の商店」という札がさりげなく張られた時、一般人は何も感じなかった。またしばらくしたある日、ユダヤ人の店先に黄色い星のマーク(ユダヤ人であることを示す)がさりげなく張られた時も、それはそれだけのことで、それがまさか何年も先の、あのユダヤ人ガス虐殺につながるなどと考えた普通人は一人もいなかったろう。つまり、「ナチ『革命』の全過程の意味を洞察」できる普通人はいなかったのだ。きのうに変わらぬきょうがあり、きょうに変わらぬあしたがあり、家々があり、店があり、仕事があり、食事の時間も、訪問客も、音楽会も、映画も、休日も――別にドイツ一般民衆の思想や性格がナチスになったわけでは全くないのだが、気のつかない世界(=ドイツ社会)の変化に彼らは「いわばとめどなく順応したのである」。そしてナチスが政権を獲得した一九三三年から七年がたって、あのアウシュビッツが始まったというわけだ。
 
 ナチスが台頭した30年代、日本において外客誘致のための対外宣伝の写真や国立公園の写真などを数多く手がけていたはずの紅陽は、いつの間にか富士山と神国日本とを重ね合わせるようになっていた。木下が言うように、戦中、多くの人々が社会の変化に「とめどなく順応」し続けたのであり、その結果引き起こされた敗戦という大きな節目の際にも、そうした順応が日本社会全体で起こってしまった。神格否定宣言をした昭和天皇が平和と民主主義を体現する日本の象徴として再出発したように、紅陽が天皇に献上した「神韻霊峰」もまた「麗容」とタイトルを変え、作品から政治色が払拭されたのである。つまり、紅陽も大多数の日本人と同じように、社会の変化に柔軟に順応し続けたのだろう。そして、それゆえに戦中も戦後も変わらずに紙幣や切手に自作が採用され、名声を得続けることができたのではなかったろうか。

 かつて「紀元二千六百年記念」のオリンピック・万博を控えた日本社会を生きた人々と同じように、われわれは「小さな兆候」に目を凝らさねばならないのかもしれない。しかし、天皇を神の子孫と報じるNHKのアナウンスは、もはや「小さな兆候」と呼ぶには、いささか大きすぎるのではないだろうか。

岡田紅陽(おかだ・こうよう)
1895~1972年。本名は賢治郎。新潟県出身。早稲田大学卒業後、米殻取引所に就職。1920年に東京府の嘱託写真家となり、関東大震災の被害状況を記録。富士山の撮影をライフワークとして約40万枚を残したほか、内地や台湾で国立公園の写真も撮影。戦前・戦後を通して紅陽の富士写真は、紙幣や切手の原図として採用された。著書に『写真の知識』(帝国教育会出版部/30年)、『国立公園写真集』(国立公園協会/36年)、『富士山』(アルス/40年)、『富嶽百景』(日本美術社/68年)、『富士』(求龍堂/70年)ほか。2004年に山梨県忍野村に開館した岡田紅陽写真美術館で作品が収蔵・常設展示されている。

小原真史
映像作家、キュレーター。監督作品に『カメラになった男―写真家中平卓馬』。著書に『富士幻景―近代日本と富士の病』、共著に『時の宙づり―生・写真・死』『戦争と平和―〈報道写真〉が伝えたかった日本』『森の探偵―無人カメラが捉えた日本の自然』がある。IZU PHOTO MUSEUM研究員として荒木経惟展、宮崎学展、小島一郎展、増山たづ子展などを担当。

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