(写真/永峰拓也)
『方法序説』
デカルト(谷川多佳子訳)/岩波文庫(97年)/480円+税
17世紀フランスの哲学者デカルトが若き日に「すべてを疑う」という地点から出発し、疑う余地のない。明晰な真理に到達するまでの探求と思索を自伝的に著した1冊。世界でもっとも読まれている哲学古典のひとつ。
デカルトの名前をみなさんご存知ですよね。そう、「われ思うゆえにわれあり」という有名な言葉を残した哲学者です。
この言葉は彼の『方法序説』という本のなかで述べられました。哲学史では、そのデカルトの『方法序説』をもって近代哲学が始まったといわれています。その理由はまさに「われ思うゆえにわれあり」という言葉にあります。ラテン語では「コギト・エルゴ・スム」です。では、なぜこの言葉が近代哲学の始まりといわれるのでしょうか。
デカルトはほんの少しでも疑いをかけうるものはすべて疑い、自分の判断から排除すべきだと考えました。デカルトが生きた17世紀というのは、まだキリスト教が支配する神学的な世界観のもとで誰もがものごとを考えていた時代です。魔女がいるといわれれば、みんなで魔女狩りをしていた、そんな時代ですね。そうした世界においてデカルトは、あらゆるものを疑って、そのうえで最後に残った、確実に疑いえないものから哲学は出発しなくてはならないと考えました。
では、あらゆるものを疑って、それでもなお疑いえないものとは何でしょうか。それは、あらゆるものを疑っている、この私自身です。あらゆるものを疑っていても、それを疑っている当の私の存在そのものは疑いえない。それを否定したら「疑う」という行為すらなりたちませんから。
ここから「われ思うゆえにわれあり」という言葉がでてきました。このもっとも明晰なもの、確実なものから思考を始めるという姿勢が、その後につづく近代哲学の基本となりました。デカルトが近代哲学の始祖といわれる理由がここにあります。
ただ、私が本書を読んでおもしろいと感じるのは、そこのところというよりは、むしろデカルトがこの真理に到達するまでを振り返っているところです。デカルトは本書の前半で、この哲学的な命題に到達するまで自分はどのような知的態度をもって生活してきたのかを述べています。いまだ確実な判断の根拠を手にしていない状況では、どのように考え、生きていけばいいか。デカルトはいくつかの格率(ルール)を自分に課したと述べています。そのうちの二つをここではとりあげましょう。
一つは、「自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと」というものです。
要するに、一度決めたら、あとは迷わずやり遂げろ、ということですね。私たちの人生は、小さなことまで含めれば、それこそ不確実なことばかりです。しかしそれでも私たちは行動し、生きていかなくてはならない。そのときにどこまで果断であるかによって、結果として得られることも、そして人生の内容そのものも変わってくる、ということです。デカルトはこれを森のなかで道に迷った旅人にたとえています。森で道に迷ったら、あちこちをうろちょろするよりは、どんな方向でもまっすぐ歩いていけば、とにかく最後はどこかへ行き着くだろう、と。なかなか深いたとえですよね。
もう一つの格率は、「運命よりむしろ自分に打ち克つように(……)つねに努めること」「そして一般に、完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけること」というものです。
これは一見すると、考えを変えればどんな苦境でも幸せになれる、というようなことを述べていると思われるかもしれませんが、そうではありません。反対に、現状を人のせいにしても仕方がない、ということを述べているのです。「会社の上司がダメだから」「社会が悪いから」と嘆いてみたところで、それは自分をなぐさめてくれるかもしれませんが、状況は何も変わりません。もし、状況を変えたい、さらには自分自身を向上させたいと思うのなら、ダメな上司のせいにするのではなく、そのダメな上司とどう接したらいいかを考えられない自分の問題を考えなくてはならない。そういう話なのです。
自分をとりまく状況はそのままでは何も変わりません。状況を変えるにも、結局は自分で動いて、自分で状況に働きかけていかなくてはなりません。状況を変えるにしても、私たちはまず自分のやり方を変えるしかないのです。まさに自分の思想と行動だけが「完全にわれわれの力の範囲内にあるもの」なんですね。どんな状況でも、それを打開するためにはどうしたらいいかを考える材料は転がっているはずです。それを考えずに人のせいにしているうちは自分を向上させることはできないし、自分に納得することもできないのです。
デカルトの哲学といえば「われ思うゆえにわれあり」という言葉ばかりが有名ですが、じつは彼のこうした知的態度のほうが私たちにとっては貴重だと思います。誰もが神学的な世界観に染まり、それ以外の考えは迫害もされた時代に、新しい思考を切り開くということは本当にたいへんなことでした。だからこそ、デカルトがどのような知的実践者だったのか、ということに注目すべきなのです。
(構成協力/橋富政彦)
かやの・としひと
1970年、愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。津田塾大学教授。主な著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。近著に『最新日本言論知図』(東京書籍)、『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)など。