バブルに浮かれた男たちの「夜の狂騒曲」

――あなたの知らない「夜の世界」をご案内します

5000億円企業・大王製紙創業家3代目の御曹司であり、東大法学部卒の超エリート。自ら起こした事件を受けて、会社を去ることになったが、自身が有する莫大な資産と華麗なる人脈、そして、その人柄に変化なし。そんな井川意高が、若き日から今に至るまで夜な夜な繰り出してきた「天上の宴」というべき夜の世界に大衆を誘う。実業家、資産家、芸能人、文化人、港区女子……そこには、どんな人々が集い、いかなる物語が奏でられてきたのか――。

しばらく、夜の世界でのお金にまつわる話をしよう。特にバブル期とそれ以降について。

私が銀座のクラブにデビューしたのは大学入学前の春休み、1983年3月のことだった。2年後にプラザ合意が結ばれ、急激な円高とそれに伴う不況が訪れることなど、誰も予想もしなかった頃だ。

その頃の私といえば、父の資産管理会社に飲み代をつけ回ししながら、「グレ」に「麻衣子」にと超一流クラブを毎晩のようにハシゴしていた。

これまでにもこのエッセイで名前を挙げてきた下着メーカーのT副社長や製鉄会社創業家3代目のYUさん、茶道の若宗匠の従兄弟HIROさん以外にも、大手映画会社のW副社長やファッションに強い百貨店の創業家4代目のK社長、大手信販会社の2代目で自動車レースでハンドルを握ることが趣味だったY社長といった先輩たちにかわいがられたものだった。

ところが、そういった錚々たる家柄の資産家社長たちの飲み方というのは慎ましやかなのだ。YUさんを除いてだが。

当時、資産家創業家社長だろうが、サラリーマン社長だろうが、タレントなどの自由業や出版社につけ回しして飲んでいる売れっ子作家だろうが、飲み方はほぼ同じ。

ウィスキーか、ウィスキーの苦手な人間ならヘネシーあたりのブランデーをボトルキープして、チビチビ飲む。今でいう「素飲み」だ。

ただ、当時「素飲み」なんて言葉はなかった。なぜなら、それが当たり前の飲み方だったからだ。抜き物(シャンパンやワインのように、一度抜栓してしまうと、その日に飲み切らないと捨てることになる高価な飲み物)を開けるなんてことは、自分の担当ホステスの誕生日か、店の開店周年祝いくらいのものだった。

そして、担当ホステスの誕生日はともかく、店の周年なんぞで高い抜き物を開けさせられては堪らないとばかりに、周年イベントの案内状が届くと、その週はその店に近寄らないという人間も多かった(もちろん、私もそちら側である)。

さて、85年のプラザ合意後、急激な円高による不況が日本を襲う。輸出関連企業の業績が低迷し、自動車業界を筆頭とした納入先の生産調整による「鉄冷え」で、新日鉄(現・日本製鉄)に内定していた同級生数名が内定辞退して、他の企業に就職したのを覚えている。

そんな経済状況に、政府日銀は景気浮揚のため87年に政策金利を2.5%まで下げることとなる。

そこから低金利、高地価の「バブル景気」が始まるのである。

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