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丸屋九兵衛の「バンギン・ホモ・サピエンス」【20】

【Michelle Yeoh】戦う亞洲姉御の数十年

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――人類とは旅する動物である――あの著名人を生み出したファミリーツリーの紆余曲折、ホモ・サピエンスのクレイジージャーニーを追う!

ミシェル・ヨー

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(絵/濱口健)

『宋家の三姉妹』のような非アクション作に出るたびに「アクション引退」を噂されるが、本人はその気がまったくない模様。故国マレーシアでの長い称号のみならず、仏レジオンドヌール勲章も受章。ちなみに現在の夫はフランス人。

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BTSのパク・ジミンを見ていて痛感するのは、舞踊という道で訓練を積んだ者が持つパワーだ。

そのパワーを証明する逸材がもうひとりいる。格闘技や武術を学んだわけではないのに、ダンスに基づくムーブの素晴らしさを武器に香港映画界で頭角を現してから40年近く、英語作品への出演から数えても4半世紀。59歳にして、ついにハリウッド作品で初の単独主演を務めるに至ったのが、Yang Berbahagia Tan Sri Dato' Seri Michelle Yeoh Choo Kheng Panglima Setia Mahkota Malaysia, Darjah Seri Paduka Mahkota Perakという正式称号で知られる楊紫瓊である。つまり、我々が言うところのミシェル・ヨーだ。

彼女が生まれたのは62年、まだシンガポールを含む「マラヤ連邦」だった頃のマレーシア、ペラ(Perak)州のイポー(Ipoh)市だ。父はマレーシア華人協会の政治家で弁護士。その出自は福建系と広東系(だから楊も「ヤン」ではなく「ヨー」)で、家庭ではマレー語と英語に次いで「カジュアルな広東語」を話していた。

スポーツ万能なミシェルは特にダンスに魅せられ、4歳から始めたバレエに打ち込むように。15歳で家族と共にUKに移住、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・ダンスでバレエを学ぶことになる。しかし! 思わぬケガにより、プロのバレエ・ダンサーへの道を断たれてしまうのだ。やむなくコレオグラフィに転向、演劇を副専攻とする。この経験がすべて後で役立つとは、当時の彼女はまだ知らない。

83年、「ミス・マレーシア」に選ばれてからミスコンテストの常連となったミシェルに舞い込んだのは、香港の俳優“スィンルン”とのCM撮影。彼女は顔合わせの瞬間に初めて、その“スィンルン”が成龍、つまりジャッキー・チェンであることを理解したという……。

きっかけとなったのはジャッキーだが、ミシェルをフックアップしたのはサモ・ハンらが率いる会社「D&Bフィルム」だ。「マーケティングの観点からKhan姓を名乗りなさい」と変な指導付きではあったものの(日本では「キング」表記)、ミシェルは84年の『デブゴンの快盗紳士録』で映画初出演を果たす。当時の香港の定型「救出を待つ乙女」役ではあったが、初めて映画の舞台裏、それも香港アクションの現場を目撃したミシェルは、自分の身体能力とダンス経験をカンフー映画に生かせることに気づく。関係者の妻が「はるばる外国から連れてきたのに、なんで型通りの役をやらせるの?」と発言したことも助けとなって、次作『七福星』では早くも柔道コーチ役。続く『レディ・ハード 香港大捜査線』『皇家戦士』『中華戦士』で大活躍し、アクションヒロインの地位を確立するが、87年に早くも引退してしまう。件のD&Bフィルム代表のひとり、実業家のディクソン・プーンと結婚したためだ。

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