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町田 康の「続・関東戎夷焼煮袋」第28回

【イカ焼】――そして私は手の中のイカ焼の熱さに戦いていた

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――上京して数十年、すっかり大坂人としての魂から乖離してしまった町田康が、大坂のソウルフードと向き合い、魂の回復を図る!

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photo Machida Ko

 長い思索と行動の果て。あるときは懊悩し、また、あるときは神変不可思議としか言いようのない般若の智慧に導かれて新大阪駅構内の元祖・イカ焼にたどり着いた私は、いよいよイカ焼を註文した。

 さあ、私はどのイカ焼を註文しただろうか。もちろん、それを知るためにはまずその基礎を知らなければならず、考えるまでもなく、私は変奏されたイカ焼ではなく、主題・テーマとも言うべき、元祖・イカ焼、を註文した。

 そのことによってイカ焼の根本の味を味わうことができる。それを知らずしてポン酢味、明太マヨ、といった変わり味を愉しむことはできない。なにごともまず、基礎・基本から学ばなければならないのである。

 扨。そしていま私は、註文した、とあっさり言ったが、誰に註文したのだろうか。いうまでもない、カウンターの向こう側に、たった一人でいる店員さんに註文をした。

 さあ、その店員さんは どんな店員さんだっただろうか。

 まあ、普通の感覚で言えば、普通の店員さんである、と思うだろう。けれども私はその店員さんは私に強い印象を与えた。

 まず、いまも言ったように、その店員さんはカウンターの向こうでたった一人でいた。つまり、註文を聞くのも、それを作るのも、それをお客に手渡すのも、お金を受け取るのもたった一人でおこのう、ということである。

 なんだそんなことか。と思うかも知れない。けれどもこれは実は凄いことなのだ。

 以前、私は著名な人が頻繁に訪れる人気焼肉店の元・店長と話をしたことがある。

 なぜ元・店長かというと、その人は人気焼肉店を辞し、独立開業したからである。

 その人物は私に、自分は人を雇わず一人で店を切り回していると言った。そこで私は不躾なことを聞いてしまった。「それは資金が足りないからか」と聞いてしまったのである。
 それに対して彼は明るい口調で言った。

「それもありますけど、一人でやるにはよほどの気合いと覚悟が必要なんですよ。僕は自分自身を奮い立たせるためにあえて一人でやっててるんですよ」

 その人物は体つきのがちりとした、口調も見た目も活力に溢れた男性だった。

 つまり、店を一人で切り回すにはそれくらい人としてのパワーが必要なのだ。

 しかるに、この店員さんは、というと、まず女性、それも若い女性であった。こんな若い女性が一人で店を切り回す。はっきり言って凄いことだと私は思い、それにまず強い印象を受けたのだった。

 その独特の印象は註文をしてさらに強くなった。

 私はカウンターの左のほうに立ち、店員の女性の注意を喚起した。右奥に居て、なにか仕込みのような作業をしていた女性店員はすぐ私に気がつき、作業の手を止めて私の前にやってきた。

 このとき私は途轍もないパワーの放射を覚悟していた。

 というのは当たり前の話で、若い女性が一人で店を切り回すという至難の業を演じているのだから、その人格・characterはパワーに溢れ、「いらっしゃいませ、なにしまひょ」といった文言を口にしただけで、他を圧倒するに違いない、と思ったからである。

 もしかしたらファンになってしまって毎日は無理としても週に一度くらい、この店に通うことになるのかも知れない。それくらい得体の知れぬ魅力とパワーをこの女性店員は持っているに違いない。

 私はそんな覚悟すらしていた。ところが。

 この若い女性店員は、そうしたパワーの放射のようなことは一切しなかった。
 ではなにをしたのか。彼女は、「元祖・イカ焼をください」と、註文した私に低い声で、「はい」と答えただけだった。

 パワーの放射はおろか、ごく一般的な商人の愛想のようなものもなかった。じゃあ、職人の無愛想があったのかというとそれもなかった。意識しようとしまいと、若い女性がどうしても発散してしまう色気もなかった。

 というと暗かったのか、というと、暗さもなかった。もちろん明るさもなかった。媚びもなく、諂いもなく、欲もなく、無欲もなかった。私に対する好悪の感情もなく、善もなく、悪もなかった。彼女は美しかっただろうか。美しくなかった。というか、そこには美がなかった。そして醜もなかった。

 ではなにがあったのか。なにもなかった。

 無であった。

 無があったのではない。ただ、無であったのである。はっきり言ってこれはいわば、お釈迦様が説いた悟りの境地で、私は内心で、これはたいへんなことになったのかもしれない、と思っていた。

 なのでここから先の説明はものの判った人にとっては蛇足かも知れないので、まあ、言わなくてもよいのだが、酔っているのだろうか、それとも悪霊に取り憑かれているのだろうか、時折、トンチキな理屈をこねて絡んでくる人がいるので、一応、それとは違うと言っておかねばならない。

 どういう屁理屈かというと、「おまえは気合いと覚悟などと言って無闇に称揚しているが、それはおまえが無知だからだ。そんなものは世の中にいくらでもある。というかそれこそが、ワンオペ、といって一部企業で問題になっている勤務形態なんだよ」という屁理屈であるが、バカ過ぎて話にならない。

 いくら私が世の中の動向にあまり興味がなく、そうしたことに疎いとはいえ、ワンオペというものが問題になって、マスコミ報道やネットで問題視されて、これを糾弾調で語る人があったことくらい知っている。

 しかし、ひとりでやっている=ブラック、と短絡的に考えられないのは、大坂人=漫才師、とか、南の島=楽園、とか、代官=悪人、といった粗雑な考え方であり、そんなことを言ったらひとりで店出しをしている、駅の売店、街頭の易者、スーパーマーケットの入り口とかでやってる餃子屋さん、屋台のラーメン屋さん、宝くじ売り場、新宿のゴールデン街とかのバーといった小規模の飲食店やなんかは全部ブラック企業というバカげたことになってしまう。

 考えるまでもないことだが、そんなことは現実的にはないわけで、けれども短絡的にしかものを考えられない人は、そうした頓珍漢のことを言うわけで、まあ、はっきり言って、しかるべきところへ参ってお祓いでも受けた方がよい。

 という訳で、魅力とパワーの放射どころか、悟りの境地・無の境地に到達していると思われる女性店員に私は元祖・イカ焼を註文してしまったのであり、どんなことになるのだろうか、と、成り行きを見守っていると、女性店員は、まるで空中を滑るようにして、すっ、と私から見て右の方、彼女から見れば左の方へ移動した。

 私は彼女がイカ焼を調理するところを見たかった。けれども同時に、それはけっして覗いてはならない禁忌の領域であるようにも思え、覗きたい気持ち半分、見てはならないと思う気持ち半分、二つの気持ちの間で私は苦しんだのだが、覗きたい気持ちが結局勝って私はカウンターのうえに身を乗り出し、右に顔を向けた。

 右の方には、そう、件の業務用イカ焼き器が据えてあった。銀色に光っていた。方形の銀色の台があり、基底にハンドル付きの調理部があり、うえに跳ね上がったハンドル付きの圧着部があった。調理部の下には銀色の抽斗のようなものがあり、半分くらい開いていた。調理部と圧着部の側面に温度調節のためであろうか、或いは酸素供給のためであろうか、一寸くらいな小孔が二つ宛穿ってあった。こちらからは見えぬが、おそらくは反対側にも穿ってあるに違いない、と私は根拠なく信じこんでいた。

 その後、私は確かに彼女がイカ焼を作るところを見ていたはずだった。けれどもなにが起こったのか、彼女がそこでなにをしたのか。その手順がぜんぜんわからなかった。

 なぜか。その手つきがあまりにも鮮やかだったからか。違う。

 それが天啓であったからだ。

 それは刹那の出来事であり、いや、出来事ですらない、刹那そのものであり、そのとき私は、私はよろこびに貫かれていた。私自身とその閃きが同じものとなっていた。誤解を恐れずに言えば、そこには神が居て、宇宙の口を開いていた。宇宙の口から白い液体が宇宙自身に流れ出て宇宙の卵が割れ、宇宙としてのはじめ二つに分かれていた象徴と寓意のような白身と黄身が忽ちにして混ざり、ひとつの黄色い塊となっていって。

 そして気がついたときには私は白い小さなプラスチックの袋に入ったイカ焼を手にして立っていた。

 そして変わらずに、無、である彼女に代銀を支払ってその場を離れた。

 夢だったのだろうか。

 それにしては手の中のイカ焼が熱かった。私の手の中には間違いなく、元祖・イカ焼、があった。無のなかで作られた宇宙の始原とも言うべきイカ焼であった。

 こんなものを食べて大丈夫なのだろうか。こんなものを食べたらなにもかもが突然に消えて、私もなくなって宇宙の塵となってしまうのではないだろうか。

 私は戦いていた。手の中のイカ焼の熱に戦いていた。

町田康(まちだ・こう)
1962年、大阪府生まれ。作家、歌手。81年に町田町蔵として『メシ喰うな!』でレコードデビュー。著書に『くっすん大黒』(文藝春秋/ドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞)『きれぎれ』(文藝春秋/芥川賞)『告白』(中央公論新社/谷崎潤一郎賞)『宿屋めぐり』(講談社/野間文芸賞)など。近著には『バイ貝』(双葉社)など。

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