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連載
町田康の「続・関東戎夷焼煮袋」第2回

トンカツ屋が多い東京、大阪にはお好み焼き屋が多い? パンクロッカー時代の町田康とお好み焼き屋

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――上京して数十年、すっかり大阪人としての魂から乖離してしまった町田康が、大阪のソウルフードと向き合い、魂の回復を図る!

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photo Machida Ko

 どぶさらえはつらかった。くっさいし、さっむいし、おもろないし。みんな自分勝手なことばかり言って人の話を聞いてないから、ぜんぜん前へ進まないし。けどまあ、なんとか終わらせた。もうあんなことは二度とやりたくないと思った。来年はどぶさらえの時期には格安航空で韓国とかにいって安宿に隠れていようとさえ思った。

 さて、とはいうもののなんとかやりおおせて帰ってきたので先月に引き続いてお好み焼きの話をしようと思う。といっていきなり別の話になって申し訳ないが、三十年前、畿内より東国に参って驚いたのはトンカツ屋の多さであった。東国に参って私が宿ったのは世田谷の代沢界隈であるが、近所を歩いているとトンカツ屋がある。

 あ、こんなところにトンカツ屋がある。トンカツなんざあ、向こうではあまり食することもなかったがこんな近間にあるンだったら一度、食してみるか。なんて、思いつつ横目に見て通り過ぎて、ものの百メートルもいかないうちにまたトンカツ屋、そこから少し行くと、またトンカツ屋、って調子で、いけどもいけどもトンカツ屋が途切れることはなく、或いはこの界隈は日本でも有数の豚の産地なのか、なんてことも考えたがそうでもないらしい。ということは、この界隈の人が異常にトンカツを愛好し、週に何度も何度も、下手したら毎日のようにトンカツを食べるため、これだけトンカツ屋があって潰れないでやっていけるということで、おかしなところに宿ってしまったものだ。そう思うとなんだか町中が油臭いような、脂でベトついているような心持ちがしてきて胸くそ悪くなった。

 いっそ宿替えをしようかとも思ったが、その銭もないため我慢して住むうちいつの間にか気にならなくなった。というか、その後、多少、形勢を回復して、近間だけではなく、渋谷新宿、上野池袋、品川や、ときには綱島町、大宮あたりまでものして歩くようになったが、いずれの町にもやはりトンカツ屋が櫛比して、それにいたって初めて関東なるところはトンカツ屋が極端に多いところと知った。

 だからどうということはないのだが、そこで関東の知り人と話していて、なにかの拍子東西の食べ物屋の話になった折、なんの気なしに、「それにつけても関東というところはトンカツ屋の多いところだな」

 といったところ彼は、濁りよどんだ目で、「ええ、そうかー」と言うばかりではかばかしい反応を見せなかったのは、あまりにも当たり前すぎて特に変わった光景に見えないのだろう。

 その会話の後、彼は、「ちょっと失敬」と言ってトイレに立ち、暫くすると輝くような目になって戻ってきて勢いごんで別の話を始め、トンカツのことはそれきりになった。

 そんな古いことを思い出したのは、そのように関東にトンカツ屋があるのと同じ感じで、関西ではお好み焼き屋があるのかなあ、と思ったからである。

 三十年間、関東に住んでいるのでいまはどんなことになっているか知らないが、思い出してみると、関西の辻辻には確かにそんな感じでお好み焼き屋があったような気がする。

 気がする、といって断言できないのは、それも関東人にとってのトンカツ屋と同じで、町の辻辻にお好み焼き屋があるのは、あまりにも当たり前、日常的な光景で、特に気にしたり意識したりするということがなかったからである。しかし、具体的にどういう局面で、お好み焼きを食したのかが思い出せない。というのもやはり、お好み焼きがあまりにも当たり前、日常的な食べ物で、それを特別なものとして記憶することがなかったからだろう。

 とはいうものの記憶という観点から言えば、お好み焼きそのものは当たり前でも、それを食べたときの状況が特殊・特別、例えば、愛する人と別れ話を切り出され半泣きで食べた、とか、酷寒の中、全裸で滝に打たれながら食べた、といった状況であれば、その状況に結びついて記憶しているのではないか、と考え、記憶を探ると、幾つかの状況が記憶の淵の水底から水面に浮かび上がってきた。

 実は私は、恥ずかしい話であるが若い頃、心の駒が狂ってパンクロッカーの群れに身を投じていたことがあるのだが、思い出したのはいずれもそのパンクロッカー並びにパンクロックが絡む記憶であった。

 まず思い出したのは、阪急電車の田舎の駅から三十分くらい歩いた、田んぼと何軒か固まった小住宅が混在して、その間にポツンポツンとパン屋やクリーニング屋が点在する地域の、そうした、小住宅を改造して拵えたお好み焼き屋で、私はその店に関東からきたパンクロッカーを案内したのだった。

 といって隠れた名店をわざわざ訪ねていったという訳ではない。

 その田んぼと小住宅の混在する地域に、群れの誰かがアパートを借りており、関東から来た別の、群れ、がそのアパートに一泊、翌日の午前にゴソゴソ起き出して、腹が減った、と言うので、阪急電車に乗って京大坂に参るのは勿論のこと、田んぼと小住宅の間の道を三十分も歩いて駅前まで行くのも面倒だ、というのでアパートからもっとも近い食べ物屋である、そのお好み焼き屋に連れて行ったのである。

 余談になるが右の経緯がわかりにくいかも知れないのでちょっと説明をすると、当時のパンクロッカーの群れと群れの間ではこういうことがいくらもあった。

 つまり関東から京大坂に、群れ、がやってくる。普通であれば宿屋へ泊まるのだが、当時の群れはカネを百ももっておらぬゆえ、宿賃が払えない。そこでどうするのかというと、京大坂の群れの誰かの家に泊まる。これならば宿賃がかからない。粗末なものだが飯も食わせてもらえ酒も飲ませてもらえる。

 となるとしかし、それでは京大坂の群れの連中は持ち出しばかりで損ではないのか。そんなビジネスモデルが成立するのか、というようなものであるが、そこはうまくしたもので、京大坂の群れの者が関東に参った場合は、こんだ、関東の者が宿と飯を提供するのである。

 この稿の冒頭で、東国に参って私が宿ったのは世田谷の代沢界隈、と申したが、それも宿屋に泊まったのではなく、そうした群れの者の家に宿ったのである。

 といって、いくら人間とけだものの中間領域を生きるパンクの輩と雖も、アルバイテンくらいはするであろうし、そこはやはり都合・事情というものがあって、そういつもいつもは泊まれないだろう、と思う人もあるかも知れないが、あの頃は、そうした小さな、群れ、がいくつもあって、顔見知りの群れの都合が悪くても、その人がまた別の、群れ、に問い合わせてくれ、そこが駄目でも、その人がまた別の、群れ、に問い合わせ、そうこうするうちにどこかしら引き受けてくれる、群れ、が見つかるのであった。だからよく知らない人の家に泊まることもあったし、よく知らない人を家に泊めることもあった。と言うと、そんな知らない人のところに泊まったり泊めたりするのは危なくないのか、と思う人があるかも知れない。

 まあ、当時でも一般社会ではそうだったのかもしれない。しかしあの頃のパンクロッカーの群れの者には、社会の最底辺に生きる人間ゆえに持っている矜恃のようなものがあり、仁義意識が極度に発達していたので、知らない人を泊めて物を盗まれることもなかったし、若い女が一人で泊まって、本人の意志に反してどうにかされる、ということもなかったように思う。少なくとも私は当時、若い男であったが、本人の意志に反して菊門を脅かされたということはなかった。また、狭い社会でそういうことをすれば、あいつはああいう奴だ、という話が群れから群れに伝わって、群れを追放される。

 もともと一般社会から逸脱、または脱落して群れに来ているわけだからそこを追放されたら他に行くところがないということをみんなよく知っているからそういうことはしなかったのである。

 って、すっかり話が逸れてしまった。

 とにかく私はそういった訳で、関東の群れの連中をお好み焼き屋に連れて行ったのである。

 あ、そう、ついでにもうひとつだけ申し上げておくと、冒頭に申した代沢の宿りというのは、このとき案内した、群れ、のなかのひとりであり、群れ特有の相互扶助の実例である。

 さて、そのお好み焼き屋はどんなお好み焼き屋だっただろうか。

 私は何度もその前を通り、やあ、こんなところにお好み焼き屋があるのだな、と思っていたが入るのはそのときが初めてであった。

 以下、その店がどんな店だったのかを、要らざる文学調の心理描写や風景描写を省き、レポート調に記してみよう。

 まずその外観は、というと、間口はそう、まあ、一軒半かそれくらい、和風のアルミ引き戸があって、大坂なれば道具屋筋、関東なれば合羽橋で買うてきたような暖簾が掲げてある。

 暖簾には、紺地に白で、お好み焼き、という崩し文字が染め抜いてあり、それによって行人はこの店がお好み焼き屋であることを知るのである。

 暖簾をくぐり、中に入ると混凝土の土間である。広さは二坪かそれくらい、ほんの玄関先、という印象で壁際にテーブルがふたつ並べてある。

 このテーブルというのが一風変わったテーブルでいわばお好み焼き専用テーブルとでも申すべきテーブルである。どんなかというと、ああ、もういまはそういうものはなくなったのかなあ、四十年くらい昔、一般家庭のダイニングテーブルと言えばこれだったのだが、いまでも場末のラーメン店などに見ることができるかも知れない、まず脚は細い金属である。そのうえに天板が乗っかっているのだが、この天板の表面に、なんつうのだろう。メラミン化粧というのだろうか、つるっとした木目調のプリントが施してある。一昔前のこたつの天板のような感じである。そしてこれがお好み焼きテーブルのお好み焼きテーブルたるゆえんなのだが、この天板の真ん中を炉を切るように、しかし、炉のような正方形ではなく、長方形に切り、そこに鉄板が嵌め込んであるのである。鉄板の下には瓦斯焜炉が仕込んであり、瓦斯焜炉から青いガスホースが延びている。

 テーブルは肩が触れ合う四人掛けで、細い方の側面に瓦斯焜炉の操作スイッチが付いている。

 そんなお好み焼き専用テーブルが、おそらくこれも道具屋筋などで購入したのであろう、その店には二脚装備してあった。テーブルの壁際には金属の罐が置いてあり、青海苔、鰹節、濃いソースなどがあって、その脇横には油を塗るための専用具が置いてある。その上に品書き。関東の群れの連中はこうした店が珍しいのか、ほっほーん、と呟きて店内を見回している。そのとき奥からこの店の主とおぼしきおばんが、いらっしゃい、と言いながら出てきた。

 私はこのおばんについて語ろうと思うのだが、申し訳ない、本日はこれから豚の餌やりの手伝いにいかなければならない。友達が養豚をやっているのだ。そんなことは面倒だしやりたくないのだが、友達を裏切ることはできない。とりあえず筆を擱き、続きは豚の餌やりが終わった後に申し上げる。ごめんな。

町田康(まちだ・こう)
1962年、大阪府生まれ。作家、歌手。81年に町田町蔵として『メシ喰うな!』でレコードデビュー。著書に『くっすん大黒』(文藝春秋/ドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞)『きれぎれ』(文藝春秋/芥川賞)『告白』(中央公論新社/谷崎潤一郎賞)『宿屋めぐり』(講談社/野間文芸賞)など。近著には『バイ貝』(双葉社)など。

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