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第2特集
極私的 MJ(マイケル・ジャクソン)論──荻上チキ[編集者・評論家]

ネットを席巻した追悼騒動 「マイケル」は上書きされた

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出典:「主要ニュースのインターネット上での書き込み数の推移(米国)」(調査対象サイトのすべての話題の書き込みに占める割合)ニールセン・カンパニー合同会社による↑画像をクリックすると拡大します

 5月9日の忌野清志郎の葬儀には8kmの行列が作られたと報道されたが、マイケルの死には、いったい何バイトのサーバー容量が費やされたのだろうか。
 
 6月26日、彼の死が報道されるや否や、数え切れないほどのユーザーたちによって、サイバースペース上に膨大な量のコメントが投稿されていった。FacebookやTwitter、AIMなどの大手ウェブサービスは、アクセス過多のために一時的にダウンし、「マイケル買い」ならぬ「マイケル落ち」現象を起こしていた。2ちゃんねるでも訃報が流れた当日だけで100を超える専用スレッドが立てられていたし、主要ニュースサイトのランキングも彼の名前で埋め尽くされていた。膨大な量のブログエントリーが書かれ、多数のレスポンスで溢れかえった。この日のサイバースペースは事実上、マイケルの死について語るための追悼会場となっていたと言えるだろう。

 膨大な書き込みの中には、サイバースペース上ではもはや「お決まり」となった感のある騒動も多数起こっていた。「マイケルの死」を予言したかのように読める過去の書き込みが話題になったと思えば、「マイケルは死んでいない」「彼は殺された」といった陰謀論に飛びつくユーザーが現れる。その莫大な遺産がどこにいくのかといったゴシップに注目が集まり、その生涯を茶化すようなエントリーを書いたブロガーのコメント欄が荒れる。流出した検死写真がいちはやく共有され、さらには何者かによってマイケルの未発表曲が流出。公には批判的なそぶりを見せつつも、自分だけは消される前にダウンロードしておこうと、多くのユーザーが必死に検索していた。

 ニールセン・カンパニー合同会社のリリースによると、彼の訃報についての言及は、「インターネットの歴史の中でも最大規模の書き込み数を集めて」おり、「ウェブ上の全話題の8%近くを占め、一日あたりの記録を更新」したという。同社の調査を信用するならば、新型インフルエンザのニュースの時で2・5%、オバマ就任の時でさえ5%ほどの言及率だったというのだから、どれほど大きな「情報感染」であったのかがうかがい知れるだろう。

 死後間もなく彼のCDは、ビルボードランキングのトップ10のうち1位から9位を独占し、日本でも、オリコンランキングトップ100に16作品がランクイン。サイバースペースでも同様の現象は起きており、iTunes Storeではトップ10に6作品がランクイン、着うたフルランキングではトップ5を独占することとなった。YouTubeやニコニコ動画などの動画共有サイトでも、彼のビデオクリップやライブ映像、MAD動画などがランキングを賑わせ、多くのレコード屋やレンタルショップにマイケル追悼コーナーが設置され、書店では関連書籍が並べられたように、マイケルの商品を特集するウェブページがあちこちに準備された。

サイバースペースの参列者たち

 時代の象徴として記憶に刻印されたアーティストの死は、人々に強烈な衝撃と喪失感を与える。仕事の合間に訃報を聞き、しばらく手を止めた者は数え切れないだろう。ただでさえ人の死を確認することは難しい。多くの人にとって、それは目の当たりにするものではなく、他人から伝え聞いた情報の一つに過ぎないからだ。

 だから人は、葬式に足を運び、自分以外の者も号泣していることを確認して、その者の不在を理解しようと試みる。他者が悲痛な表情を浮かべていることを確認し、自分の喪失感に対して意味づけを行う。追悼式に足を運ぶファンもまた、そこに多くのファンが集っていたという事実を確認し、また自分が足を運んだという事実を作ることによって、スターの死を受け入れようとしていたのだろう。
 
 他人の死を受け入れる作業というのは、「世界に関する情報を上書きする作業」になる。ファンにとって2009年は「マイケルが死んだ年」になり、それ以降は「マイケルの死んだ世界」へと変わる。そこで人々は死者への評価を固め、彼が不在になった社会を受け入れることで、世界に対する意味づけを変えていく。カリスマ的存在というのは、街に設置されたモニュメントのようなもの。そのモニュメントが、ある日突然、消えてなくなった。大きな存在が失われて変化してしまった風景を確認するために、人は「心の整理」と言いながら、世界観の再構築を行っていく必要があるわけだ。

「追悼式に足を運ぶほどではない」多くのユーザーにとっても、サイバースペースは聴き親しんだスターの名の急報に思いを馳せるのに、十分な機会を与えてくれた。さながら「ジョン・レノンゆかりの地巡りツアー」のように、YouTubeやニコニコ動画などで、マイケル動画をひとつひとつ閲覧していくユーザーが多く見受けられたのは象徴的だ。ただでさえ彼のビデオクリップはいずれも非常によくできているし、変則的なダンスは中毒性があるが、もちろんユーザーの目的は、ただ動画を視聴するためだけではないし、時間をかけて故人を回想するためだけでもない。コメント欄で「他人がどう反応しているのか」を確認するのと同時に、そこに追悼コメントを書き込むことで、メモリーに刻み込んでいくこと。すなわち、一時期注目されていた「ネット墓」「バーチャル供養」(ネット上で墓を持ち、好きな時にモニターに向かって参拝したり、mp3で読経の音声が聞けたりするウェブサービス)のように、バーチャルな告別式に参列し、記帳を続けていたというわけだ。
 
 古い記憶を手繰り寄せる代わりにウェブ上のアーカイブを検索し、弔文を読み上げる代わりにコメントを残し、SNSやブログで「みんながどんな反応をしているか」を確認する。インターネットはさまざまなアクションを簡便化したが、一方で「小さなアクション」を蓄積して、大きな動きに仕立て上げることもしばしば。「追悼式に足を運ぶほどではない」ユーザーたちによる、そうした「ワンクリックアクション」が積もり積もった結果、各ランキングを「マイケル」の名が総なめする事態が作り上げられていったのである。

拡張現実の中でタグ付けされたMJ

「仮想現実」とも表現されがちなサイバースペースだが、当然ながらそこで行われているコミュニケーションは「仮想」のものではない。多くの者は、仮想的世界を生きて「ネット廃人」になるためではなく、既に構築された人間関係のつながりを、そして日常の中で生まれてくるさまざまな感情をメンテナンスするために、インターネットを使っている。今年のサイゾー7月号でも「VR(Virtual Reality)」の次世代的な概念として紹介されていたように、最近「AR(Argument Reality)」という技術の存在が注目されているのは象徴的だろう。「AR」のコンセプト概念を一言で表せば、「仮想現実から拡張現実へ」ということになる。『ドラゴンボール』の「スカウター」のように、現実空間にディスプレイ映像を重ね合わせるシーンを思い浮かべてみよう。

 現実をより豊かに享受するために、情報を書き加えていくこと。最近の作品では、NHKアニメ『電脳コイル』に、「電脳メガネ」と呼ばれる眼鏡型のコンピュータが、『東のエデン』に、ケータイを通じて情報を共有できる画像認識プログラム「東のエデン」が描かれていたが、それぞれの作品でも、現実のコミュニケーションを拡張的に享受するために、コメントやタグが利用されていくシーンがふんだんに盛り込まれていた。そこで得て、書き換えられていく情報は、現実の世界観の構築に一役買っていく。
 
 ARに限らずデジタルデバイス利用の多くは、もはや単に「ディスプレイを覗き込む」作業ではなく、「現実の情報を上書きする」作業になる。映画やアニメのファンが、「聖地巡礼」と称してロケ地を訪問するとき、現地の人なら素通りする場所に「あの××が訪れた場所」と意味づけ「感動」しているとき、ファンの視線にはスクリーン上の情報がその場所に上書きされているのと同じこと。社会とメディアスペースは、コミュニケーションを通じて連動していく。テレビで、ケータイで、パソコンで、マイケルの死について語りあい、「きっと彼は天国にコンサートをしに行ったに違いない」「何度でも蘇って、スリラーを踊って見せるだろう」と慰めあっていくファンたち。かつて楽しんだ音楽や動画を、「亡くなった人の曲」として聞きなおしていく行為は、まさにコンテンツに対するメタ情報を上書きする作業そのものだ。多くの者はコンテンツを通じてしかマイケルのことを知らない。だが、コンテンツを受容する体験そのものも、現実を拡張する体験にほかならない。追悼式場としてのサイバースペースは、その点で最適な会場のひとつであった。
 
 著名人の死に際して人々は、「二階級特進」並にその評価を高めることもしばしばであり、マイケルに対しても例外ではない。だが、彼はもともと最上級だった。ニコニコ動画内では、コンテンツのクオリティに反して再生数がなかなか伸びない動画に対して、「もっと評価されるべき」というタグが「お約束」的に付けられることがある。死後間もなく彼のビデオクリップには、そのタグをパロディ化した「ずっと評価されるべき」というタグが、名もないユーザーの手によってそっと添えられていた。メディア上で共振し、上書きされ続けるマイケル神話。今では彼をめぐるウェブ上の騒動もひと段落したが、その高い評価は今後もシェアされていくことだろう。

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おぎうえ・ちき
1981年生まれ。編集者、評論家。近著に『社会的な身体』(講談社現代新書)、『経済成長って何で必要なんだろう?』(編著/光文社新書+シノドスリーディングス)など。(撮影/佐藤類)


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