「推し」でも「沼」でも なく「偏愛」がいま 求められる理由

「こだわり」「推し」「沼」、少し以前なら「萌え」と人の固執した愛情を表す言葉は無数にあるが、近年さまざまな業界で「偏愛」を冠したコンテンツが目立っているのは、なぜだろうか。単にキャッチーなだけではない。その背景をメディアの現場や言語哲学の視点から探ると、社会と偏愛の意外な関係が浮かび上がってきた。

「偏愛」を謳った雑誌の特集たち

偏愛が巷にあふれている。「偏愛スイーツ」「偏愛クラシック」「こだわりと偏愛の家が美しい」……どれもこの1年以内に刊行された雑誌の特集名だ。ANAグループが2024年9月に始動させた「偏愛日本プロジェクト」は、日本各地の名所を、一個人のこだわりを前面に打ち出した視点で紹介していく企画。小売大手ドン・キホーテが23年11月から展開する「偏愛めし」シリーズは「フライドチキンの皮だけ弁当」などの尖った商品展開が話題を集めた。偏愛と謳っていないが、珍しい趣味を持つ人々を紹介する『マツコの知らない世界』(TBS系)や『沼にハマってきいてみた』(NHK)などの番組が人気なのもこうした流れの一部と呼べそうだ。

確かに偏愛コンテンツは面白い。マニアックな知識が増えるし、偏愛を持つ人の生き方自体が驚きに満ちている。だがこの言葉を見聞きするとき、奇妙な感覚もついてくる。メディアや企業が使う偏愛は「変わった嗜好や視点、並々ならぬ愛情や熱量を持つこと」くらいの意味である場合が多い。偏愛の辞書的な定義は「ある物や人だけを偏って愛すること」。どちらかといえばネガティブな意味合いを含む言葉をあえて選ぶ背景に何があるのだろうか?

偏愛と書籍は好相性?

「本の作り手として強く感じるのが、多くの人が切実にコスパ・タイパを重視していること。みんな本当に時間がありませんよね。ただ、あくまで肌感覚ですが、自分だけの特別な趣味や熱中できるものを持ちたい人は増えていると思います。そうしたニーズに本はすごく相性が良い。ネットやSNSの情報は細分化されすぎているから、あるテーマを網羅的に学ぶには効率が良くないんです。本や雑誌は一冊である程度完結できるのが強い。雑誌の偏愛特集は、テーマの魅力や細かな知識までしっかり押さえていることが多く、これが人気を集める理由のひとつかもしれません」

そう語るのは、朝日新聞出版で書籍編集を手掛ける塩澤巧氏。同氏が言うように、現在の出版市場の売れ筋を見るとコスパ・タイパ偏重の影響がよくわかる。出版不況が叫ばれて久しい中、手堅く売れ続けているジャンルは自己啓発本と実用書・ビジネス書。つまり読書時間という投資から実際的なリターンが得られやすい本を求める人が多いのだ。「自分だけの趣味に熱中すること」はコスパ・タイパの観点からは相容れないように思えるが、偏愛コンテンツにはそれらを橋渡しする性質があるのかもしれない。そんな中で、ニッチなテーマの本の人気が高まっている印象も実際にあると塩澤氏は言う。

「24年に『楽しく学べる はにわ図鑑』という本をつくったのですが、予想外にヒットしました。企画会議では上司から『本当に売れるの?』と言われたものの、偏愛の力というか、ニッチなものを求める機運の高まりを強く実感できた企画ですね」

出版時期が東京国立博物館の特別展『はにわ』と重なっていたという追い風もあった。だが注目したいのは「執筆チームが、本当に歴史が好きな人々だった」ことだ。実際に同書は、はにわのディープな魅力を知識ゼロでも堪能できる丁寧な作りに感心する。偏愛と呼べるほどひとつのテーマを突き詰めた人々が生み出すコンテンツの力、それを示す好例のひとつだ。

これは偏愛の力が良い方向に働いた事例と言えそうだが、『マツコの知らない世界』のような偏愛を持つ人を紹介するコンテンツに、批判的な眼差しを向けるメディア関係者もいる。主要局の番組制作に携わってきたある映像ディレクター・A氏は「匿名なら」という条件で本音を明かす。

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