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早稲田、中央、明治……政治家と弁論部の関係の歴史

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――昔から「政治家は大学の弁論部や松下政経塾で学ぶ」といったイメージがあるが、政治塾はわかるとしても、弁論部から政治家が輩出されるのは謎である。なぜ、弁論部出身の政治家が多いのか? 弁論部の誕生からその背景を探る。

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(写真/Getty Images) 

昭和から平成にかけて、政治家といえば「私立大学の弁論部出身者が多い」というイメージがあった。

例えば竹下登、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗といった、かつての歴代総理大臣は早稲田大学の「雄弁会」出身であるし、三木武夫も明治大学の「雄辯部」出身。現職の衆議院議員を見ても、自由民主党の大臣経験者である岩屋毅と下村博文は雄弁会出身で、若手(といっても、共に40代半ばだが……)に目を向けても、自民党の武井俊輔と立憲民主党の道下大樹は、中央大学の「辞達学会」で先輩と後輩の関係にあたる。

これらを見るに、弁論部にはどうも政治家を輩出する機能があるようだが、このイメージが一般にも強く、広く持たれるようになったのは、2000年の第一次森喜朗内閣が「雄弁会内閣」と呼ばれたことが大きいだろう。雄弁会の同窓である小渕の急逝によって、急きょ、総理大臣のバトンを渡された森が発足させたこの内閣は、官房長官・大臣クラスに青木幹雄、深谷隆司といった同世代を配置したほか、官房副長官を額賀福志郎が務めるなど、雄弁会出身のOBを多く据えたことでも話題となった。

しかし、森の「神の国発言」などで支持率が下がると、「アホ・バカ宰相を輩出する早大雄弁会の政治ごっこ」(「週刊宝石」00年5月11・18日号)、「やっぱり早大雄弁会政治が日本を滅ぼす!?」(「SPA!」00年12月6日号)など、複数の週刊誌に雄弁会が取り上げられ、逆に叩かれてしまうことになった。

とはいえ、いち大学のサークルのOBで閣僚を固めることができるほど、私立大学の弁論部は政治と近い距離感にあるというわけである。一体このつながりはいつから存在し、またどのように強くなっていったのだろうか? 帝京大学共通教育センターの教授で、教育社会学者の井上義和氏によると、弁論部と政治家のつながりは明治時代までさかのぼるという。

「明治時代、福沢諭吉が『スピーチ』を『演説』と翻訳し、日本に広く紹介、慶應義塾で実際にその練習を始めたことが、日本における弁論の始まりです。明治以前の日本でも、指導者が人々に語りかける場面はあったでしょうが、それを『弁論術』という訓練によって習得可能な技術と捉え直すようになったんですね。そして、大勢の前で自分の主張を訴える弁論は、明治10年代の自由民権運動の盛り上がりのなかで、一般の人にもなじみの風景になっていきます。これが最初の弁論ブームではありましたが、『雄弁家=野蛮な壮士』といった偏ったイメージが定着する結果にもなりました」

同氏によると、弁論ブームのなかで、今でいうところの街宣活動に近い弁論も増えてきて、当初の欧米流の洗練されたイメージからはかけ離れてきたという。しかし、時代が下るにつれ、弁論は意識の高い若者たちを魅了していくことになる。

「明治34年(1901年)に中央大学辞達学会、その翌年に早稲田大学雄弁会が創立されるのですが、明治30~40年代にかけて、大学や高等学校、果ては中学校の弁論部を舞台に弁論は再び広がりを見せていきます。私はこれを『第2次弁論ブーム』と呼んでおり、自由民権運動の頃のブームと区別したほうがいいと考えています。

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