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第1特集
右翼にも左翼にも愛された親鸞の正体

右翼にも左翼にも愛された浄土真宗開祖〈親鸞〉の正体

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――浄土真宗の開祖である親鸞。その思想は戦前、超国家主義者の論拠となった一方で、社会主義者も参照した。要するに、右派からも左派からも“利用”されたということだが、解釈の振れ幅がこれほど大きいのはなぜなのだろうか? 近代における親鸞受容を振り返りながら、今改めて稀代の仏僧の正体に迫りたい。

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こちらが親鸞聖人影像。西本願寺(龍谷山本願寺)のサイトより。

鎌倉時代に浄土真宗を開いた親鸞。「悪人正機(あくにんしょうき)」「絶対他力(ぜったいたりき)」の考えで知られ、数多いる仏僧の中でも特に日本人に愛され、論じられてきた。

ただ不思議なことに、例えば禅について僧侶や仏教研究者以外が自己流の解釈を語っても説得力を持たない一方、親鸞に関しては浄土真宗の門信徒以外が自己流の読み方を示し、やはり真宗の門信徒ではない読者に支持されることもある。この状況は、いかにして生まれたのか?

また、日本近代において、大正期に被差別部落解放のために立ち上がった初期水平運動の担い手からも、昭和初期に滝川事件[註1]天皇機関説事件[註2]など数々の言論弾圧を引き起こした超国家主義団体「原理日本」の中核メンバーからも参照されたのが親鸞だった。左派の社会主義者からも極右からも信奉されるとは、一体どういうことなのか?

近世までの親鸞受容は、おおよそ真宗の影響の範囲内に収まっていた。江戸時代には親鸞を題材とした浄瑠璃が演じられ、平仮名で書かれた絵入りの親鸞伝が刊行されたが、権威を守ろうとする本山の本願寺などからの圧力で多様な解釈は抑制されていた。だが、明治以降は教団外での語り、教団外への影響力の拡散が抑えられなくなる。武蔵野大学文学部の碧海寿広准教授は著書『入門 近代仏教思想』(ちくま新書)で、近代以降の仏教の広がりを「『宗教』であるのみならず、時に『哲学』となり、時に個人の内的な『体験』となった。さらには、『教養』の一部となり、その果てに、『伝統』から遠く離れて、『私』だけのものになった」とまとめているが、親鸞受容もこうした道をたどった。

「中世以来、民衆にとっては死後の問題が重要で、念仏を唱えれば阿弥陀如来の他力により死んだ後に極楽浄土へ行って救われるという親鸞の考えは魅力的でした。蓮如[註3]などの活躍によって、浄土宗よりも身近な印象を与えるものとして真宗は仏教界で最大勢力を誇るようになり、親鸞聖人は偉人として崇敬の対象となってきた。しかし近代に入ると、そうした観点とは異なる親鸞像や思想が都市のインテリ層を中心に広がっていきます」(碧海氏)

明治期、真宗寺院に生まれながらも西洋哲学を摂取した井上円了(えんりょう)や清沢満之(まんし)は「哲学」として仏教を、親鸞を語った。また、清沢の弟子・暁烏敏(あけがらすはや)は1903(明治36)年、個人的な体験に引き寄せて「歎異鈔(たんにしょう)を読む」を雑誌「精神界」で連載、著書『歎異鈔講話』としてまとめた。このテキストは、親鸞と弟子との対話を記した『歎異抄』[左のコラム参照]が近代日本で突出した人気を誇る仏教書となることに寄与し、その「自分に引きつけた読み方」自体が無数のフォロワーを生んだ。そして大正期、教団外の作家による倉田百三(ももぞう)『出家とその弟子』や石丸梧平(ごへい)『人間親鸞』が人間くさく悩む親鸞、真宗の「伝統」から離れた「私」なりの親鸞像を提示してベストセラーに。22(大正11)年には次々に親鸞絡みの出版物が真宗とは関係ないところでも刊行される「親鸞ブーム」が発生し、親鸞は「教養」として、ある種のポップアイコンとして、人々の関心の対象となっていく。

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